水の秋

すずろなるかなしみもあり水の秋

 

こころを澄んだ水を湛えた器に喩えるとしたら、感情というのはある種の濁りとみることも出来るだろう。そして喜怒哀楽の感情には、それを生じさせる何かがある。

人に親切にしてもらった喜び、理不尽な世の中に対する怒り、愛する人を喪った哀しみ、好きなことに没頭している楽しさ・・・何もないところに感情は生まれない。

ただ、その何かが自分でもよく分からないということはときどきある。はっきりとした理由は分からないが、なんとなく笑みがこぼれてくるとか、我知らず鼻歌を唄っているとか・・・。

この句を詠んだときは、とにかく無性に哀しくて、「何が?」と自分に問うても答えが出なかった。

 

 

<広告>

わが家も減塩!

にほんブログ村 介護ブログへ
にほんブログ村

にほんブログ村 ポエムブログ 俳句へ
にほんブログ村

柿若葉

柿若葉笑まひつつ亡き父に詫ぶ

 

この句を詠んだのはまだ母が存命の頃である。父に対しては、特に認知症の症状が顕著になってから亡くなるまでの二年余りの自分の対応に深い後悔があった。

しかし、時の経過とともにすこしずつ気持ちの整理がついてきて、ふと笑顔で父を思い出せる日も増えてきた。その頃に詠んだ句だ。ただ、母が亡くなるとなかなかこの句を公開する気持ちになれず、もうお蔵入りにしようかとも考えていた。

三日前に父の夢をみた。うれしそうに笑っていた。そこでふとこの句を思い出した。父や母を亡くした哀しみは消えることはない。それでも、生きていれば笑えるときもある。笑えるときに笑っておこう。そう思ってこの句を公開することにした。

 

<広告>

にほんブログ村 介護ブログへ
にほんブログ村

花を降らせる

亡き人を思ひ出づればかの世では花降ると聞く父母思はむ

 

「亡くなった人の思い出話をすると、あの世でその人の周りに花が降る」というのは、NHKの『母の待つ里』というドラマの中で僧侶役の伊武雅刀氏が語った台詞である。私はたまたまこのドラマの再放送を、母の一周忌の前に見て、このことばが耳から離れなくなった。

出典は何だろうといろいろ調べてみるが、いまのところそれらしきものは見つからない。あるいは出典はなくて、原作者の浅田次郎氏か脚本家の創作なのかもしれない。

だが、創作でもいい。私はこの話を信じたいと思う。これからも父や母のことを綴り、思い出を語り続ける。花を降らせるために。

 

※ この作品は第27回NHK全国短歌大会入選作品集に掲載されています。

 

 

<広告>

わが家も減塩!

にほんブログ村 介護ブログへ
にほんブログ村

にほんブログ村 ポエムブログ 俳句へ
にほんブログ村

養花天

亡き母へ膨らむ思ひ養花天

 

母が亡くなって一年半以上が経つが、母への思いは増すばかりだ。愛しさ、懐かしさ、感謝、さみしさ、申し訳なさ、哀しさ・・・母が亡くなってからの半年余りのような喪失感はさすがに薄れてはきたが、それでも「こころ晴天」というわけにはいかず、曇り空が続いている。

一方でこの曇り空は、桜の咲く頃の薄く明るい曇り空で、こころに重くのし掛かるようなものでもない。だから、こころに咲く花を育てている曇り空なのだと私は思っている。

そう私はこれから花を咲かせねばならない。父や母を介護したことが、私のこころの根を育ててくれたということを示すためにも。

 

<広告>

にほんブログ村 介護ブログへ
にほんブログ村