水の秋

すずろなるかなしみもあり水の秋

 

こころを澄んだ水を湛えた器に喩えるとしたら、感情というのはある種の濁りとみることも出来るだろう。そして喜怒哀楽の感情には、それを生じさせる何かがある。

人に親切にしてもらった喜び、理不尽な世の中に対する怒り、愛する人を喪った哀しみ、好きなことに没頭している楽しさ・・・何もないところに感情は生まれない。

ただ、その何かが自分でもよく分からないということはときどきある。はっきりとした理由は分からないが、なんとなく笑みがこぼれてくるとか、我知らず鼻歌を唄っているとか・・・。

この句を詠んだときは、とにかく無性に哀しくて、「何が?」と自分に問うても答えが出なかった。

 

 

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母の忌に切なく柿を食ひにけり

 

母が最後に口にしたのは柿だった。しばらく食が細く、特にご飯はほとんど食べられていなかったが、日曜日の昼食にとろろご飯を作ったら久しぶりに80グラムほど食べて、ああ良かったと安堵した。その後3時頃におやつに柿をむいて一口かじったと思ったら、ぽろりと口から落ちて、昼に食べたとろろご飯を全部吐き出してきた。その後は水も受け付けず、翌日の昼に亡くなった。

私は果物の中では柿が一番好きだが、このことがあってから柿を食べるとちょっと複雑な気持ちになる。特に昨年の母の一周忌に供えた柿を剥いて食べたときは、なんとも切なかった。感情を直接的に表現した句は総じて駄句とされるが、駄句でもいいから一句でも多く母のことを詠みたい。

 

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秋風

秋風を見てをり眠る母に添ひ

 

認知症になった母を、父と姉と三人で支えながら生活していた。だが、母より先に父が亡くなってしまい、その後に義兄が転勤となり和歌山から離れることになった。

もう母の在宅介護は無理かと思ったが、義兄が単身赴任をしてくれたので、引き続き姉の助けを得ながら母の在宅介護をすることができた。

ただ、せめて義兄が赴任先から帰ってくる土日や祝日は姉も自宅で義兄にくつろいでもらいたいのとのことで、日曜、祝日は私が母と二人で過ごすことになった。

母と二人きりで過ごす休日はどこにも出かけられない。とにかく母の傍で退屈しているしかない。この日は母のベッドの傍で庭木を揺らす風を見ていた。

 

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震災忌

ただ独り逃ぐる身となり震災忌

 

つい最近も青森県で大きな地震があった。戦争や災害の報道に接するたび、ああきっと戦地にも被災地にも、肉親の介護をしている人がいるに違いない。危険が迫っても逃げるに逃げらず、途方に暮れているのではないかなどと考える。私自身も母が生きていた頃は、自分たちも被災したらどうしたものだろう。とても母を連れて避難所には行けそうもない・・・などと考えを巡らしたものだ。

母が死んでしまったいまは、そんな思案を巡らす必要もなくなった。わが身ひとつ、とにかく安全な場所に逃れることだけ考えればよい。こころが軽いと言えば軽いが、やはり一方ではさみしくもある。

 

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もう良きかと尋ねて母は秋に逝く

 

2024年9月30日に母は旅立った。その二週間ほど前だったか、姉から「この間おかちゃんが急に『わたしやもう死んでもええか』って言うた」と聞かされた。この頃の母は姉のことは認識できなくなって、しばしば他所の人のように接することが多かったというが、このときは確かに姉だと認識して言ったようだ。

少し気にはなったが、まさか本当に逝くとは思わなかった。亡くなってみると、きっと母はもうとっくに限界を超えて生きてくれていたのだと思った。ただ、なぜ母がこの年に逝くことにしたのか、それが分からない。息子である私はもう自分がいなくても大丈夫だと思ったのか? それともまだまだ心配だが、これ以上はもう付き合いきれないと思ったのだろうか?

 

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ピーマン

ピーマンのやさしさ種をくつろがす

 

一昔前、ピーマンという語は「中身が空っぽ」という比喩で使われた。「頭がピーマン」「話がピーマン」といった具合だ。

しかし、このピーマンの空洞こそ「大いなる空っぽ」である。そして、ふと母はピーマンのような人だと思った。「幸彦、太陽っていうんは一個しかないんか?」などと子どものようなことを尋ねる人で、世の中の常識に対して驚くほど無知なところがあり、その意味で空っぽなところがある人だった。だが、そのお陰か私は母から強い束縛を受けたり、過度な期待をかけられたりすることがなく、自由な生き方をさせてもらえた。

まさに母はピーマン、私はその広い懐の中で育てられた種であったと思う。

 

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病む母に添ひてこころは旅の秋

 

父が亡くなってから、姉が来てくれない日曜・祝日は買い物など短い時間の外出以外はどこにも出かけられず、一日母に添う生活だった。これが約四年半続いた。

残暑もおさまり、心地よい秋風が吹きはじめると、風が旅に誘っているようで、「母が死んだらどこか旅にでも出ようか。どこに行こうか」など考えたこともあった。

実際に母が亡くなると、そんな旅心はどこへやら、いまもまだ遠出をする気持ちにはならないが、それでもちょこちょこと日帰り旅行ぐらいには出かけられるようになってきた。

たぶんいずれは遠いところへも旅するようになるのだろう。そして、そうなった時には、在りし日の母との日々を思い出すことが、私にとっての旅となるのかもしれない。

 

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露の夜や亡き人ばかり母呼びて

 

母が眠ってくれているときが自分の時間だった。一人では起き上がることさえ出来ない。楽しみと言えば、甘いものを食べることぐらいしかない。そんな母にせめてさみしい思いをさせまいと出来るだけ傍にいようと考えていたが、結局は自分の時間が欲しくて、眠っている母が目を覚ました時など、もう少し寝ていてくれたらと思ったものだ。

目を覚まして傍に誰もいない母が、自分に近しい人を片っ端から呼ぶことがある。亡き祖父母、亡き夫、亡き姉、亡き妹。生きている私が呼ばれることはほとんどない。

母もさみしかっただろうが、私もさみしかった。だが、いまとなっては私にさみしい思いをさせるのも、そのさみしさを癒やしてくれたのも母で、逆に私は母のさみしさを癒やすことは何一つ出来なかった。

 

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稲の花

平凡に生きられぬ世や稲の花

 

戦後八十年。日本の国内では戦争はなかった。第二次世界大戦後も、国内での紛争や外国による侵略、独裁的な政権による弾圧などで苦しんでいる国の人々を思うと、本当にそれだけでも幸せなことだ。

そんな世界から見れば平穏な日本という国にも、地震や洪水などの大災害や、航空機や鉄道や自動車などの事故や、凶悪な犯罪、卑劣な詐欺などに苦しめられたり、命を奪われたりする人々がいる。

そうした人々に比べれば、認知症になってしまったとはいえ、父や母の生涯は恵まれたものであったには違いないが、それにしても、こんな平和ボケと云われるような国でさえ、平凡に生き、平凡に死んでいくことのなんとむずかしいことかと思わずにはいられない。

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葛の花

葛の花われに心の根なる母

 

葛を見るたび、地下に広がる膨大な根を想う。山の斜面を覆い尽くすほど蔓や葉を繁らせるためには、どれほどの根を地中に張り巡らせねばならないことだろうか。もっともその根からあの美しい葛粉がとれて、その葛粉からあのおいしい葛餅が出来なければ、そこまで根のことに意識が向かなかったかもしれない。

生命力の強さを感じさせる蔓や葉、美しくおいしい葛粉と葛餅、さらにはあの鮮やかな紫の花もまた、逞しい根の賜物である。

葛の花を見ていて、自分もいつか心の中にこのように美しいを咲かせてみたいものだと思った。心の花を咲かせるためには、心の根が必要だ。もし私が心の花を咲かせられるとしたら、母という心の根のお陰に違いない。

 

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