母の心根

盗られしと一度たりとも訴へず母は財布を無くせしといふ

 

母はこころの美しい人であった。わたしがそう思うのは、認知症になってからの母がなんの忖度も遠慮もなく、自分の感じたままを率直に表現しながらも、人を非難したり、疑ったりすることばをひと言も口にしなかったからである。

認知症の人の中には、自分が財布をどこに置いたかわすれたときに「財布を盗まれた」という人も少なからずいるという。しかし母は「わたしの財布どこぞへいてしもた」とか「わたしや財布なくした」とかいっても、「盗られた」といったことは一度もなかった。

もちろんことばのやり取りの中で、腹の立つことやつらいこともあったが、母の心根の美しさがよく分かっていたから、母を嫌いになることは一度もなかった。

 

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夏落葉

丁寧に暮らしてをればそのうちに何か変はると夏落葉掃く

 

玄関の飾り棚に花を飾れた日、私は自分に言い聞かせる。「よし、まだこころは潤いを失ってはいない……」

介護をしていると絶望的な気持ちになることがある。これがいつまで続くのだろう。長く続けば続くほど母は衰えていくのだ。そして結局のところ母は死ぬのだ。そんな気持ちのときは暮らしの端々がどこか粗略になる。

そこで花を活ける。庭を掃く。しっかりと食べる。ことばに気を配る。もちろんそれでも母は衰えていくし、いずれは死ぬ。だが、結末は同じでも何かが変わると信じて……。

母亡きいま、喪失感と未来への不安に苛まれながらも、やはり同じことを自分に言い聞かせている。

 

※ この作品は第26回NHK全国短歌大会入選作品集に掲載されています。

 

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菫程な人

菫程な小さき人とはわが母のことなり母が笑めば春なり

 

「菫程な小さき人に生まれたし」という夏目漱石の句の中の「菫程な小さき人」とは、世のしがらみを離れ、菫のようにひっそりと生きる人との解釈があるようだ。

この解釈に拠るなら、認知症になって姉や私のことさえはっきりとは認識出来なくなった母は、まさに「菫程な小さき人」であった。病の痛みやさみしさはあったかも知れないが、世のしがらみはもう一切気にする必要はなくなっていたというか、そんな意識ももう持ってはいなかっただろう。

その母の笑みは私にとっては春そのものだった。母が亡くなってはじめての春。母の笑みのごとくに咲いた菫を愛でる。

 

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おもかげ

おもかげをわするることが二度目の死われ在るかぎり父母を詠む

 

母が生きていたときは、俳句や短歌を詠むことが本当に楽しかった。内容的にはつらいものであっても、それが形になるとつらさと裏腹のよろこびがあった。

だが、いまは、俳句や短歌を詠むことが苦しい。母が亡くなって、もうすぐ半年になろうとしているのに、哀しみが癒えるどころか、死んで5年になろうとする父のことまで思い出してしんみりする始末である。

それでも、たとえ月に一句、一首でも、三ヵ月に一句、一首でも父や母のことを詠みつづけていきたい。いのちとしては存在しなくても、父や母の存在が完全に消えたわけではない。わたしが生きて、父母を詠むかぎり・・・・・・。

 

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暮らしの手触り

やはらかに衰へてゆく老母との日々の暮らしの手触りいとし

 

認知症にくわえて、糖尿病・不整脈・脊椎間狭窄症など数々の病気を発症した母との暮らしは思い起こすと平坦とは言えないものだった。しかし、そのときは辛かったり、哀しかったりしたことも過ぎてしまうと懐かしくさえ思われる。

幸いなことに、亡くなる前の2,3年は比較的母の体調は良く、狭窄症の後遺症の痛みなどを訴える日も少なかった。その分認知症はすすみ、姉や私のこともほとんど分かってはいなかったと思うが、母の介護しながら送る毎日には確かな手触りがあった。

この日々をもう少し続けていきたいと思っていたが、それは叶わぬ夢となった。

 

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長生き

長生きをさせてしまつてごめんなさい  われといふ子を産みしばかりに

 

ほんとうは5年前に危篤になったときに、母の寿命は尽きていたのかも知れない。病院で夜通し付き添った姉は、心電図の波が平になるのを何度も見たそうだ。

それから母は5年生きた。それは私が心配だったからに違いない。未婚で、稼ぎも少なく、頼りない息子を一人にしておくわけにはいかないと思ったのではないだろうか。特に4年前に父が先に旅立ってしまったので、母は死ぬに死ねなくなったのだと思う。

認知症で自分がどこにいるかも分からず、そのうえ車椅子生活で身の周りのことはすべて誰かに頼らなければならない。そんな母を早く楽にさせてあげられなかった私は、とんでもない親不孝者だ。

 

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姥捨

ふとわれは姥捨をせし人間の生まれ変はりと思ふ夕暮

 

夏目漱石の『夢十夜』に、背中に負ぶった子どもが、ちょうど百年前に自分が殺した人間だと気づき、その瞬間に背中の子どもが石地蔵のように重くなるというおそろしい話がある。

この短編を読んで、仮に前世に私が人間だとしたら、どんな人間だっただろうと考えた。

そして、ふと私は前世、姥捨ての風習のあった村で、母を山に捨ててきた人間かも知れないと思った。ただ、幸いにして前世の母は、私が姥捨てをしたことを許してくれているのかも知れない。こうして母の介護をしながらも穏やかに暮らせているのだから。

それともある日、前世の自分の行為を思い出し、母が石地蔵のように重くなる日が来るのだろうか。

 

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知れる人なき

知れる人なきが悲しとつぶやきて母は食事に手をつけざりき

 

このときは私もかなしかった。いくら私は息子だと言っても、母には分からない。母の記憶の中にいる、父や祖父母や姉、妹はいない。一口も食べようとしない母を前に、もはや掛けることばがなかった。

しかし、長生きするということはこういうことなのだ。知っている人間は先に亡くなってしまって、自分だけが生き残る。長生きは、よほど孤独に強い人か、新しく出会う人とでも心を通わせることの出来る人でなくては、かえって辛かろうと母を見ていて思う。

もっとも人の寿命を決めるのはその人自身ではない。辛かろうが、淋しかろうが、生ある限り生きるほかない。

 

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演技

わすれをる演技を母はしをるやも過ち多き息子おもひて

 

本当に母は認知症なのだろうか。いや、認知症には違いないのだが、ときどき記憶が鮮明なときもあるように思う。もちろんすべての記憶が蘇ったわけではなく、いくつかの事柄を思い出すだけなのだろうが、少なくとも私のことが息子と分かり、いま、自分の置かれている立場がどういうものか認識しているときがあるのではないか。

私は生来癇癪な質で、些細なことですぐに怒ってしまう。そして、後でそんな自分が情けなくなる。母のほうは感情を表情に表わさず「なぜ怒るの?」というような顔をしているが、あれは私を落ち込ませないための演技ではなかろうか。「分かっているよ」母の目がそう言っているように思えることがある。

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ありがとう

暁に吾を父と見て母言へり「いろいろしてくれてありがとう」

 

あれには驚いた。父が亡くなって、二、三ヶ月経った頃だったろうか。真夜中に母をトイレに連れていって便器に腰掛けさせると、「お父さん」と言って、私の胸に頭をぐりぐりと押し当てた。それは思いもよらぬ愛情表現だったが、母のあふれんばかりの父への思いを感じた行動でもあった。

ちょうど同じ頃、暁に母が隣に眠っている私に向かって、「お父さん。いろいろしてくれてありがとう」と言ったのにも驚いた。母が父にこんなふうに感謝のことばを述べるのを聞いたことがなかったからだ。

母が認知症になってから、父は多くのものを犠牲にしてきたと思っていたけれど、それに見合う愛情と感謝を母から受けていたのかも知れないといまは思う。

 

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