枕元すこし上げたる介護ベツドを老母眠れば平にもどす

 

土曜の夜に来てくださるヘルパーさんは、母の清拭や足湯、パジャマへの着替えを済ませた後、介護ベッドに母を寝かすと、枕元をすこし上げておいてくださる。こうすると、スムーズに睡眠に入れるとの配慮からだろう。

昨今は睡眠を感知して、上げておいた背もたれを自動で元に戻すという優れもののベッドもあるようだが、わが家の介護ベッドはそこまでハイテクではないから、母が眠りについたあとは、私が手動で枕元を下げる。

なお、この作品は「第25回NHK全国短歌大会」の題「平」から想を得たもので、試しに応募もしてみたら、吉川宏志さんが佳作に選んでくださった。Web以外の形で軌跡がひとつ残せたことはうれしい。

 

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人のみが

人のほか老いを労る生き物を知らざるわれは人でありたし

 

どんな生き物も子どもは大切にする。では、老いたものはどうだろうか。そもそも自然界の生き物には、いわゆる老年期そのものが存在しないかも知れないが、弱肉強食の世界では、老いたものを労るゆとりはないであろう。少なくとも私は、人間以外に老いを労ることのできる生き物を知らない。

数年前にある議員が「生産性のない人たちは税金で支援する必要がない」というコラムを発表して話題となったが、生産性のなさでいえば、わが母も同じだろう。(いや、私も)

無用の人などいないが、百歩譲って世の中に無用の人がいるとして、そうした人もまた大切にできるのが人ではないだろうか。少なくとも私は、そういう人でありたい。

 

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苺という字

はつなつの苺香れるわが家のくさかんむりは今も父なり

 

母が話しかけたり、呼んだりする相手は、断トツで「お父さん」「おとちゃん」である。ときどき「お母さん」と言うこともあるので、この「お父さん」が私の父(つまり母の夫)ではなく、祖父のこともあるのかも知れないが、状況から考えると、ほとんどは父のことではないかと思われる。どこかが痛むとき、目覚めて近くに誰もいないとき、ふとしたとき、母は父を呼ぶ。そのたび今も、父が母を守り支えているのだと感じる。

「苺」という漢字は、母という字を「くさかんむり」が覆っている。まるで、くさかんむりが母を守っているかのようだ。わが家で母を守るくさかんむりは、姉や私ではなく間違いなく亡き父である。

 

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何者

何者といふべきものになれぬまま かはたれのわれ たそかれのわれ

 

「かはたれ」「たそかれ」。どちらも古語で、それぞれ明け方、夕暮れの薄暗い時をさす。うす暗くて「彼は誰?」「誰そ彼?」と尋ねるところからきたことばだという。

有難いことに五十九歳になった。来年は還暦だ。同級生には、孫のいる人だっている。なのに自分はなんという体たらくだろう。妻も子もなく、誇れるべき仕事もしてこず、両親におんぶに抱っこでこの歳まできてしまった。せめて両親の恩やお世話になった方々に報いる生き方がしたいが、この先なにが出来るかも分からない。

ただ一つだけ、母だけは傍にいて見送りたいと思う。たとえ母が私のことを息子と分からなくても、何者でなくても……。

 

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祝いのことば

今日はぼくの誕生日だよと母に言へば掛けてくれたことばは「おはよう」

 

母の語彙が痩せていく。それに伴って、言い間違いも増えた。例えば、「おいしい」を「うつくしい」と言ったり、「気持ちいい」を「かわいい」と言ったりする。その他には、ことばの一部だけが元のことばで、あとは別のことばの場合もある。私の名前は「ゆきひこ」だが、よく「ゆうこ」と呼ばれる。この場合は、母の妹の「ようこ」と混同しているのか、「ゆきひこ」と言おうとして言い間違えるのかは、はっきりしない時もあるが……。

この時、誕生日ということばを母が理解して、「おめでとう」と言おうとしたことは表情から分かった。「おはよう」は、言い間違いだが、還暦近い人間の誕生日に贈ることばとしてはなかなか素敵だと思った。

 

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この人が好き

やはらかな目覚めの顔で「幸彦か……」とつぶやく母よこの人が好きだ

 

幸せよりも幸いがいい。もちろん独身男のひがみととってくれてよい。幸せにはなりたいが、昨今どうも幸せ過ぎることは、どこかで苦しんでいる人が本来享けるべき分を横取りしていることのような気がしてしまう。

私の名前は、「幸せな男子」ではなく、「幸いな男子」という意味だ。父は十二人兄弟で女が十人。母は四人姉妹。女子の多い両家の中で唯一、幸いにも本家を嗣ぐ男子が生まれた。それで幸彦と名付けたと聞いている。

介護のいる母と暮らしている今を幸せというのは、さすがに瘦せ我慢めくが、母が生きていてくれることは素直に幸いである。そしていつか母が旅立っても、やはりそれも幸いではないかと思う。

 

 

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父にもありけむ

母が吾を摩ってくるることもあり父にも然るときやありけむ

 

母が私をさすってくれる。母のベッドを低床ベッドに替えたので、ベッドの隣に敷いた自分の布団と母のベッドとはほぼ同じ高さになった。父がまだ生きていた頃はまだ低床ベッドではなく、夜中に母が痛がると父は自分の布団に母に来るように言って一緒に眠っていた。こうされるとトイレに行くときに母を起こすのが大変だから止めてくれと父にたびたび言ったものだが、今なら分かる。横になったままで母を摩れるから楽なのだ。

そして、父もこうして母に摩ってもらったこともあったのだろうと思った。つらいことの多かっただろう父の介護の日々にも、こんな時もあったかも知れないと思うと、少しだけ心が軽くなった。

 

 

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人の密度

わが母は朧なれどもぎゆつと人詰まりて人の密度は高し

 

ああ、これが母なのだ。認知症が進むにつれて、むしろ母という人の本質が見えてきたように感じる。ものわすれが始まり、財布や預金通帳を紛失したときでも、「わたしや財布どこぞへ失うた」とは言ったが、一度も誰かに盗られたとは言わなかった。機嫌の悪いことはあっても、相手を非難するような物言いはしない。まして叩いたり、手を払いのけたりといった乱暴な行為は一度もない。介護サービスの方々や子どもにもよく「ありがとう」と言う。

人間らしさ、それも人間の良質なところがいっぱい詰まっている、そんな感じがする。少なくとも私よりも母のほうが人としての密度は高い。

 

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一万回

一万回母を傷つけしその口で吐いてしまへり一万一回目のことば

 

本当は一万回どころではない。これまでどれだけ母を傷つけることばを吐いてきただろう。なかには暴言もある。誰かがそれを聞いて通報したら、私は虐待の罪に問われていたかも知れない。絶対にしないと誓って守ってこられたのは、母に手を上げないことだけだ。もう限界と思ったら、大声で泣くことにしている。泣くにせよ怒るにせよ、母に強く当たった後は、心にちくりと棘が刺さる。

それでも、すべての怒りを抑えたくはない。少なくとも「認知症だから仕方ない」という納得の仕方をしたくない。それは何か違う気がするのだ。母を一個の人間として見るなら怒るべきことをしたら怒りたい。たとえ母の心にも自分の心にも棘が刺さろうとも……。

 

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春の蚊

手もことば伝へたれどもわれの手のことば足らずを春の蚊が刺す

 

介護は、手がいのちだと思う。介護の大半は手を使う行為だ。さらに言えば、介護は手で被介護者の身体に触れる行為である。身体を支える、おむつを替える、清拭をするといった行為は相手の身体に触れることなしには出来ない。だから、口で伝えることばに加えて、手で伝えることばがあると思う。いくらやさしいことばをかけられても、手にやさしさがなければ介護される人は安心して身を任せられまい。

私の母のように、言葉の理解が難しくなってくると、なおさら言葉だけでは気持ちが伝えられない。だから、「手のことば」が重要になってくるが、めったに人を刺すことのない早春の蚊がちくりと私の手を刺した。

 

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