何者

何者といふべきものになれぬまま かはたれのわれ たそかれのわれ

 

「かはたれ」「たそかれ」。どちらも古語で、それぞれ明け方、夕暮れの薄暗い時をさす。うす暗くて「彼は誰?」「誰そ彼?」と尋ねるところからきたことばだという。

有難いことに五十九歳になった。来年は還暦だ。同級生には、孫のいる人だっている。なのに自分はなんという体たらくだろう。妻も子もなく、誇れるべき仕事もしてこず、両親におんぶに抱っこでこの歳まできてしまった。せめて両親の恩やお世話になった方々に報いる生き方がしたいが、この先なにが出来るかも分からない。

ただ一つだけ、母だけは傍にいて見送りたいと思う。たとえ母が私のことを息子と分からなくても、何者でなくても……。

 

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祝いのことば

今日はぼくの誕生日だよと母に言へば掛けてくれたことばは「おはよう」

 

母の語彙が痩せていく。それに伴って、言い間違いも増えた。例えば、「おいしい」を「うつくしい」と言ったり、「気持ちいい」を「かわいい」と言ったりする。その他には、ことばの一部だけが元のことばで、あとは別のことばの場合もある。私の名前は「ゆきひこ」だが、よく「ゆうこ」と呼ばれる。この場合は、母の妹の「ようこ」と混同しているのか、「ゆきひこ」と言おうとして言い間違えるのかは、はっきりしない時もあるが……。

この時、誕生日ということばを母が理解して、「おめでとう」と言おうとしたことは表情から分かった。「おはよう」は、言い間違いだが、還暦近い人間の誕生日に贈ることばとしてはなかなか素敵だと思った。

 

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この人が好き

やはらかな目覚めの顔で「幸彦か……」とつぶやく母よこの人が好きだ

 

幸せよりも幸いがいい。もちろん独身男のひがみととってくれてよい。幸せにはなりたいが、昨今どうも幸せ過ぎることは、どこかで苦しんでいる人が本来享けるべき分を横取りしていることのような気がしてしまう。

私の名前は、「幸せな男子」ではなく、「幸いな男子」という意味だ。父は十二人兄弟で女が十人。母は四人姉妹。女子の多い両家の中で唯一、幸いにも本家を嗣ぐ男子が生まれた。それで幸彦と名付けたと聞いている。

介護のいる母と暮らしている今を幸せというのは、さすがに瘦せ我慢めくが、母が生きていてくれることは素直に幸いである。そしていつか母が旅立っても、やはりそれも幸いではないかと思う。

 

 

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父にもありけむ

母が吾を摩ってくるることもあり父にも然るときやありけむ

 

母が私をさすってくれる。母のベッドを低床ベッドに替えたので、ベッドの隣に敷いた自分の布団と母のベッドとはほぼ同じ高さになった。父がまだ生きていた頃はまだ低床ベッドではなく、夜中に母が痛がると父は自分の布団に母に来るように言って一緒に眠っていた。こうされるとトイレに行くときに母を起こすのが大変だから止めてくれと父にたびたび言ったものだが、今なら分かる。横になったままで母を摩れるから楽なのだ。

そして、父もこうして母に摩ってもらったこともあったのだろうと思った。つらいことの多かっただろう父の介護の日々にも、こんな時もあったかも知れないと思うと、少しだけ心が軽くなった。

 

 

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春の蚊

手もことば伝へたれどもわれの手のことば足らずを春の蚊が刺す

 

介護は、手がいのちだと思う。介護の大半は手を使う行為だ。さらに言えば、介護は手で被介護者の身体に触れる行為である。身体を支える、おむつを替える、清拭をするといった行為は相手の身体に触れることなしには出来ない。だから、口で伝えることばに加えて、手で伝えることばがあると思う。いくらやさしいことばをかけられても、手にやさしさがなければ介護される人は安心して身を任せられまい。

私の母のように、言葉の理解が難しくなってくると、なおさら言葉だけでは気持ちが伝えられない。だから、「手のことば」が重要になってくるが、めったに人を刺すことのない早春の蚊がちくりと私の手を刺した。

 

おトクな買い物でフードロス削減【Kuradashi】

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