亀鳴く

亀鳴けど聞こえぬ母の耳掃除

 

子どもの頃よく母が耳掃除をしてくれた。大きな耳垢が取れると嬉しそうに、「こんなんが取れた!」と取れた耳垢を見せた。医学的には耳掃除というのはする必要がなく、自然と耳垢は外に排出されるしくみになっているらしい。耳掃除をしてかえって外耳道を傷つけてしまうこともあると知って、自分はともかく母の耳掃除はしないでいた。ところが、ある時母の耳の穴を見ると耳垢で塞がっている。固まっていて耳かきでは取れない。ピンセットで摘まむと、見たこともないような大きな固まりが出てきた。高齢になると耳垢の排出機能が衰えるらしい。

ちなみに「亀鳴く」は、春の情緒を表わす季語で、実際には亀が鳴くことはない。

 

 

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春風

春風に母を洗ひて日に干せり

 

リアルにいのちの洗濯だ。九十歳を過ぎた母と共に暮らしていると、「いのち」や「存在」ということがより強く意識される。正直、あと十年生きるかも知れないし、明日はもう生きていないかも知れない。九十歳を超えた人間のいのちの灯火は無風でも消えてしまうようなものだと思う。とすれば、うららかな春の日、やわらかな春風の中で母を日光浴させるのは、比喩ではなく「いのちの洗濯」そのものではなかろうか。

母が「悲しい」と嘆いても、「痛い」と呻いても、なす術がないときは空しい。それでも、誰しもがこうして直に自分の親のいのちに関わっていられるわけではない。その意味では、私は恵まれている。

 

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石鹸玉

石鹸玉透けて記憶を病める母

 

『認知症』という病名に抵抗がある。では、どんな病名がよいか。一時期『記憶を病む』という表現を遣っていた。肺結核のことは、『胸を病む』と表現される。『心を病む』や『脳を病む』では他の精神疾患と紛らわしいので、『記憶を病む』ではどうかと思った。

しかし、最近はこれも違うなと思う。認知症が進んで表れる症状は、記憶力の低下にとどまらない。母には確かにさまざまな認知機能の低下が見られる。その意味では、『認知症』という病名は適切なのかも知れない。

それでも、やはり「母が認知症になった」という表現にはどこか違和感がある。侮蔑的と感じる人もいるかも知れないが、「母がボケた」というほうが、私にはしっくりする。

 

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草餅

草餅やいまは老母の頬を拭く

 

食べ物を口に運ぶ。当たり前だと思うこんなことが出来ない時がある。それがいまの母だ。食べ物を落とすことの多くなった母の手に半分に割った草餅を持たせる。母は餅がまだ手元にあるときから口を開ける。それから、ゆっくりと餅を口に運んでいく。しかし、餅は開いた口をそれて、頬にぶつかる。草餅のなかの餡が頬につく。頬に餡をつけた様子は、幼子のようだ。記憶にはないが幼い頃、私も母に頬を拭いてもらっていたことだろう。当たり前と思っていることも、実は学習と反復で身につけた「出来る」に違いない。

出来ないことが出来るようになり、老いてまた出来なくなる。だが、老いの出来ないはいのちを全うした証とも言えるのではないか。

 

 

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母朧介護の父も朧めく

 

迂闊だったのは私だ。「そうか、幸彦は息子やったんか。これは迂闊やったなあ……」一緒に飲んでいた父が心底驚いたように言った。父も認知症になることは、想定できた。なのに、それは想定外だった。そうなってほしくないという願望が、その想定を遠ざけていたのだろう。願望もまた認知症という病気の萌芽を、看過させてしまう。

圧迫骨折での入院をきっかけに認知症が急激に進んだ父は、もうほとんどことばが発せられなくなって家に戻ってきた。その父が亡くなる一ヶ月程前にぼそっと「おまえは誇りやさけ」と言った。実際は、はっきりとは聞き取れなかった。そう聞き取ったのも、私の願望に違いない。

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