初音

体温計の音待ちをれる初音かな

 

毎朝母の体温と血圧と脈を測りそれを記録するということを約5年続けたが、母の死とともにその日課も終わった。エクセルで表を作成し、手書きで記入したその記録紙は約5年分で60枚余りある。もう母も亡くなってしまったので捨ててもかまわないのだが、なんとなく捨てがたくて、いまも残してある。

あれは母が亡くなった年の春のことだったか。母の脇に体温計をはさみ、体温が検知できた知らせのピピピピという音を待っていたら、どこからか「ホーケキョ」という鶯の鳴く声が聞こえてきた。それはその年初めて聞いた鶯の鳴き声であった。

介護に追われてときに季節さえもわすれそうになったときもあるが、その都度木々や花や鳥や虫たちが季節を思い出させてくれた。

 

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豆の花

この日々の手触りいとし豆の花

 

11月8日に、まったく同じモチーフの短歌を掲載したので、二番煎じのような作品になってしまうが、同じモチーフの短歌バージョンと俳句バージョンというふうに受け止めていただけたら有難い。

日々の手触りとは、時という無形のものと、自分や自分に関わる人びとや物という有形のものが一体化して確かにそこに「在る」と感じられることとでも表現したらよいだろうか。いずれにせよこれまでの暮らしを振り返ると、手触りのある日々と手触りのない日々がある。

それらの中でも母が亡くなる前の3年程の生活は、時と母と自分とが確かに「在る」ことを実感できる日々であり、それはもう触れることができないだけに「手触り」と表現するにふさわしい日々である。

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病む母に添へば桜も聞くばかり

 

この春、姉と7年ぶりに花見に行った。父と母と姉と4人で海南市の小野田にある宇賀部神社に花見に出かけたのが7年前。その年の秋からの1年余りは母の体調がすぐれず3度の入院があり、翌年の初夏には父が亡くなり、夏には母が骨折し車椅子生活となってといった次第で、それから6年一度も花見に行くことはなかった。昨年の秋母が亡くなって7年ぶりの花見となったわけだが、この間桜は私にとって花便りを聞くだけの花であり、物理的にも精神的にももっとも遠い花であった。

長い人生の中には人との交わりにも時期によって親疎があるが、自然との触れ合いにもまた親疎がある。

 

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朧夜

朧夜の母には淡きものばかり

 

亡くなる前の1年から2年、母には、この世界がどう見えていたのだろう。姉や私のことを誰だと思っていたのだろう。テレビを観ても反応しなくなっていたから、いろいろな物が認識できなくなっていたに違いない。

もっともそれも日によってかなり落差があって、たまには姉やわたしのことを認識している日もあっただろうし、いろいろな物が比較的よく認識できていた日もあっただろうが、反対にほとんどの物が認識できていない日もあったのではないかと思う。

そんな日の母にとって、世界はまるで朧のようだったのではないかと想像する。そのとき母にとっては、世界ばかりか自分の存在さえ淡く感じられていたのかもしれない。

 

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黒文字の花

黒文字の花幸せに単位なく

 

幸せとは、一つ二つと数えるものなのだろうか。それとも、一時間二時間とか一日二日とか数えるものなのだろうか。母を見送って哀しみにしずむ日々、しかし、いまこんなに哀しいということは、それだけ母と暮らした日々が幸せだったということだと気づいた。介護の日々がつらかったのなら、いまはむしろ解放感のほうが大きいはずだ。

そうすると、いまのこの哀しみもまた幸せの一部のような気がしてくる。喜びと悲しみ、幸せと不幸せは背中合わせもので、切り離すことが出来ないものなのかもしれない。

単位というものは連続するものを一定の基準で区切ることによって作られるものだが、人の気持ちは果たして区切れるのだろうか。

 

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日永

退屈を母と分け合ふ日永かな

 

私が仕事に行く平日は、いつも姉が来て母の世話をしてくれた。それは義兄が単身赴任をしてくれたお陰だが、日曜や祝日は私が一日家にいられるので、姉は来ない。週末は義兄が家に帰ってくるし、姉も毎日では大変だから、祝日は休んでもらわないといけない。

そうではあるのだが、まる一日一人で母の相手をするのも正直つらい。母は食事以外は車椅子にじっと座っているほかにすることがない。テレビを観ても内容がもう理解出来ないらしく面白がる様子もない。私は私で、できるだけ母の傍にいてやりたいとは思うものの、母の傍で何といってすることもない。

結局は二人で退屈している。休日は一日が本当に長かった。

 

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春の雨

つれづれと母に添ひ寝の春の雨

 

亡くなる前の1、2年ほどは毎日、訪問入浴が来てくれる水曜日以外は、昼前後に起きて、夜に就寝するまで車椅子で過ごすというのが母の生活のパターンだった。

ただ、日によって昼を過ぎてもまだ寝ているということもあって、いつ起きるというか分からないので、私も一日の予定が立ちづらい。特に姉が手伝いに来てくれない日曜日は、母を外に出ることも叶わず、かと言って何かに集中して向き合うのも難しい。

仕方なしに昼間から母のベッドの横に布団を敷いて母と並んで横たわっているというような日もあった。

一日が長く感じたものだが、母が亡くなって間もないいまは、さらに一日が長い。

 

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土筆

遠き日や土筆よろこぶ母ありき

 

子どものころ、土筆を摘んで帰ると母は喜んでくれた。もっとも料理をするのは母ではなくて父だったが……。

男子というのは、なにかしら母の期待を感じているものだと思う。もちろん男女に限らず子どもは親の期待を背負うものだが、ある意味男子にとって母親の期待は呪縛にもなっている場合があるように思う。

その点では、母は不思議なほど私にプレッシャーをかけることがなかった。内心ではそれなりに期待していたのかも知れないが、それを直接口にすることはなかった。

それが良かったのか悪かったのか。私は何者と呼べるほどの人間になれなかったが、私に呪縛をかけなかった母に感謝している。

 

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春めく

頬に餡つけたる老母春めきぬ

 

母を詠んだ俳句には、パンを手にしたまま眠ってしまったり、菓子を握りしめていたりと、幼子のような姿を描いた句が少なくない。実際、いまの母はある意味幼子にもどっているのかも知れない。

老母の介護をしていると、「施設に預けることを考えないのか」と尋ねられることがある。その問いへの答えは、「たとえ一晩でも幼子を施設に預けられますか?」という問いへの答えに似ているかも知れない。

もっとも幼子は季節に喩えるとまさに春で、はじまりの躍動に満ちている。一方、高齢者は冬で、おわりの静けさを漂わす。いかに母が幼子めいていても幼子のように、存在そのものが春めくことはない。

 

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水温む

水温む老母の嗽ががががぺ

 

母の歯磨きは私がしている。歯を磨くという行為そのものをわすれてしまっているようだから、自分で歯ブラシを持たせてもきょとんとしている。誤嚥性肺炎を起こさないために、口の中を清潔にするよう主治医から言われているので、代わりに私が磨く。

歯を磨いて口を漱ぐとき、本人は「がらがら」としているつもりなのだろうが、私の耳には「がががが」としか聞こえない。吐き出すときの「ぺ」だけは同じだが……。

「がらがら」ではなく、「くちゅくちゅ」するように言って、しばらくは出来ていたが、もうそれもほとんどしなくなった。いまはただ、水を口に含んで「だー」と吐き出すだけだ。まあ、歯が磨けるだけよしとしよう。

 

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