はじめての母なき春や星潤む

 

季節はめぐるもので、今年還暦となった私は、もう春夏秋冬を何十回となく春をむかえてきたけれど、母のいない春をむかえるのは今年はじめてだった。

生きていたとしても、大腿骨の骨折をしてからの母は車椅子生活だったし、認知症もすすんで何かに感動することもなくなっていたから、桜を見に連れ出すこともなかっただろうが、それでも春というこころ弾みのある季節を母と一緒にむかえられないのはさみしかった。

右城暮石に「妻の遺品ならざるはなし春星も」

夜空を見上げて、ふとこの句を思い出し、私にとって春の星は、母の遺品か、それとも母そのものか、そんなことを考えた。

 

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春灯

春灯やこの椅子に母ここに父

 

父が亡くなって五年余り、母が亡くなって一年、いまだに二人の死を乗り越えたとは言い難い。

端的にいうと毎日が面白くない。たとえば仕事が早く終わった日、「さあ、これから帰って父と一杯やれる」というときの父がいない。たとえば日曜日、「今日は天気もよいし、父と母とどこかへ行こうか」などというときの父も母もいない。おいしいものを食べても一人、うつくしいものを見ても一人、日々の生活に“張り”がない。

そのうえ母が亡くなって、俳句がほとんど詠めなくなった。俳介護をはじめてからの四年間、巧拙は別としても7400句あまりを詠めたのに、亡くなってからの1年間、詠めたのは100句足らず、結局のところ私の俳句は文字通り「俳介護」だっということか。

 

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お母さんと咲ける菫に語りかけ

 

いつの頃からか、私はすみれの花のイメージを母に重ねるようになった。すみれの花は可憐でかわらいらしく、か弱く見えるが、植物としてのすみれは、アスファルトの裂け目にも生えるたくましさがあり、また冬にも花を咲かせることもあり、けっして弱い草花ではない。

いくつもの病気を抱えながら、九十三歳まで生きた母は、菫の可憐さとたくましさを併せ持った人だったように思う。また、すみれ色は母の好きな色でもあった。

わが家の庭では、春になるとすみれが花を咲かせる。母が亡くなって初めてむかえた今年の春、すみれの花を見たとき、われ知らず「お母さん」と語りかけていた。

 

 

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薄氷

亡き母の夢見し朝や薄氷

 

亡き父の夢はよく見るのに、亡き母の夢を見ることは少ない。むしろ母が生きていたときのほうが、母の夢をよく見たような気がする。そのうえ、どういうわけか母の夢はあまりよく覚えていない。父の夢は今でも覚えているものがいくつもあるのに、母の夢で覚えているものはほとんどない。母の夢で覚えているものは、父と二人で出てきたり、姉と二人で出てきたりする夢ばかりで、母一人が出てきた夢はなぜか見てもわすれてしまう。

実は、今朝も母の夢を見た。目覚めたときはまだ外は暗かった。そのときは確かに夢の内容を覚えていたはずなのに、日が昇る頃にはもう夢の中身が思い出せない。なんとももどかしい。

 

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菜の花

菜の花や母不治なれば明るき家

 

実はこの句は母を詠んだものではない。水田の中の一角に鮮やかな菜の花畑を見つけたとき、その明るさの中にふっと陰のようなものを感じた。そこからある物語が浮かんだ。

それは母親が不治の病で余命宣告を受けた家族が、残された母親との時間を慈しもうとしている姿である。残された時間は限られている。だからこそ、出来る限り明るく楽しく母との時間を過ごしたい。

そんな想像で詠んだ句ではあるが、母が認知症と診断されてからのわが家と重なる部分もある。認知症はいまのところ治らない病気である。だから、そのことを嘆いても仕方がない。母が認知症であっても、楽しめることを模索しながら共に暮らしていこうと家族一丸となって頑張ってきた。わが家もまた「明るき家」であった。

※ この作品は第26回NHK全国俳句大会入選作品集に掲載されています。

 

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初音

体温計の音待ちをれる初音かな

 

毎朝母の体温と血圧と脈を測りそれを記録するということを約5年続けたが、母の死とともにその日課も終わった。エクセルで表を作成し、手書きで記入したその記録紙は約5年分で60枚余りある。もう母も亡くなってしまったので捨ててもかまわないのだが、なんとなく捨てがたくて、いまも残してある。

あれは母が亡くなった年の春のことだったか。母の脇に体温計をはさみ、体温が検知できた知らせのピピピピという音を待っていたら、どこからか「ホーケキョ」という鶯の鳴く声が聞こえてきた。それはその年初めて聞いた鶯の鳴き声であった。

介護に追われてときに季節さえもわすれそうになったときもあるが、その都度木々や花や鳥や虫たちが季節を思い出させてくれた。

 

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豆の花

この日々の手触りいとし豆の花

 

11月8日に、まったく同じモチーフの短歌を掲載したので、二番煎じのような作品になってしまうが、同じモチーフの短歌バージョンと俳句バージョンというふうに受け止めていただけたら有難い。

日々の手触りとは、時という無形のものと、自分や自分に関わる人びとや物という有形のものが一体化して確かにそこに「在る」と感じられることとでも表現したらよいだろうか。いずれにせよこれまでの暮らしを振り返ると、手触りのある日々と手触りのない日々がある。

それらの中でも母が亡くなる前の3年程の生活は、時と母と自分とが確かに「在る」ことを実感できる日々であり、それはもう触れることができないだけに「手触り」と表現するにふさわしい日々である。

 

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病む母に添へば桜も聞くばかり

 

この春、姉と7年ぶりに花見に行った。父と母と姉と4人で海南市の小野田にある宇賀部神社に花見に出かけたのが7年前。その年の秋からの1年余りは母の体調がすぐれず3度の入院があり、翌年の初夏には父が亡くなり、夏には母が骨折し車椅子生活となってといった次第で、それから6年一度も花見に行くことはなかった。昨年の秋母が亡くなって7年ぶりの花見となったわけだが、この間桜は私にとって花便りを聞くだけの花であり、物理的にも精神的にももっとも遠い花であった。

長い人生の中には人との交わりにも時期によって親疎があるが、自然との触れ合いにもまた親疎がある。

 

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朧夜

朧夜の母には淡きものばかり

 

亡くなる前の1年から2年、母には、この世界がどう見えていたのだろう。姉や私のことを誰だと思っていたのだろう。テレビを観ても反応しなくなっていたから、いろいろな物が認識できなくなっていたに違いない。

もっともそれも日によってかなり落差があって、たまには姉やわたしのことを認識している日もあっただろうし、いろいろな物が比較的よく認識できていた日もあっただろうが、反対にほとんどの物が認識できていない日もあったのではないかと思う。

そんな日の母にとって、世界はまるで朧のようだったのではないかと想像する。そのとき母にとっては、世界ばかりか自分の存在さえ淡く感じられていたのかもしれない。

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黒文字の花

黒文字の花幸せに単位なく

 

幸せとは、一つ二つと数えるものなのだろうか。それとも、一時間二時間とか一日二日とか数えるものなのだろうか。母を見送って哀しみにしずむ日々、しかし、いまこんなに哀しいということは、それだけ母と暮らした日々が幸せだったということだと気づいた。介護の日々がつらかったのなら、いまはむしろ解放感のほうが大きいはずだ。

そうすると、いまのこの哀しみもまた幸せの一部のような気がしてくる。喜びと悲しみ、幸せと不幸せは背中合わせもので、切り離すことが出来ないものなのかもしれない。

単位というものは連続するものを一定の基準で区切ることによって作られるものだが、人の気持ちは果たして区切れるのだろうか。

 

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