ミニトマト

ミニトマト母のいのちの糧となれと赤く熟るるを三つ四つ捥げる

 

母の食べられるものが少なくなってきた。肉や魚は調子のよいときは食べられるが、たいていは飲み込めず吐き出してくる。野菜はいも類とたまねぎはよく食べてくれるが、にんじん・大根などの根菜類はときどき、葉物野菜やきゅうり・ピーマンなどはほとんど吐き出してくる。葉物野菜やきゅうりが食べられないので、生野菜はほとんど母に出せなくなった。そんな中、唯一母がよく食べる生野菜がトマトだ。もっとも皮は吐き出してくるので、皮を剝く。

家庭菜園では、作りやすくて、皮も剝きやすい中玉と呼ばれる直径3センチくらいのミニトマトを作っている。今年は豊作だ。

 

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わが家も減塩!

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6月8日

池田小事件の日ごと歳一つとりたる母ととらぬ子ども等

 

あの日、70歳になった母は、あれから23年生きて、93歳になった。あの日以来、母が誕生日を迎えるごとに、共に日々を過ごせるよろこびを思う一方で、いつも大阪教育大附属小学校児童殺傷事件のことが胸をよぎる。小学校の教員をしていた母の誕生日に、母が教えることの多かった1年生・2年生の子どもたちが、こともあろうに学校で殺傷されてしまったという巡り合わせは偶然だとしても、その偶然によってこの事件はいっそうせつないものとして私の胸に刻まれた。

世界は不条理に満ちているとはいえ、生あるものは必ず死ぬという条理が、あのような形で小さな子どもたちに降りかかったことを思うとき、この世界を呪いたくなる。

 

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天寿

わが母をフジコヘミングさんと比し何か変はらん宿命生くるに

 

なんと不遜なことを言う奴だと思われるかも知れないが、私の母もおそらく天才なのである。「おそらく」と書いたのは、天才を知るのは天才のみであって、天才でない私にはそう断ずることが出来ないからだ。ただ、才能の有無を比べているのではない。フジコさんも母も、人として与えられた運命を全うした(しようとしている)点において変わりはなかろう。

フジコさんと母は同じ1931年生まれだ。12月生まれのフジコさんは今年の4月21日に92歳で旅立たれ、母はあと2日、6月8日を迎えると93歳になる。

音楽にはまったく造詣のない私だが、母と同年生まれの音楽家の死を悼みたい。合掌。

 

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枕元すこし上げたる介護ベツドを老母眠れば平にもどす

 

土曜の夜に来てくださるヘルパーさんは、母の清拭や足湯、パジャマへの着替えを済ませた後、介護ベッドに母を寝かすと、枕元をすこし上げておいてくださる。こうすると、スムーズに睡眠に入れるとの配慮からだろう。

昨今は睡眠を感知して、上げておいた背もたれを自動で元に戻すという優れもののベッドもあるようだが、わが家の介護ベッドはそこまでハイテクではないから、母が眠りについたあとは、私が手動で枕元を下げる。

なお、この作品は「第25回NHK全国短歌大会」の題「平」から想を得たもので、試しに応募もしてみたら、吉川宏志さんが佳作に選んでくださった。Web以外の形で軌跡がひとつ残せたことはうれしい。

 

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人のみが

人のほか老いを労る生き物を知らざるわれは人でありたし

 

どんな生き物も子どもは大切にする。では、老いたものはどうだろうか。そもそも自然界の生き物には、いわゆる老年期そのものが存在しないかも知れないが、弱肉強食の世界では、老いたものを労るゆとりはないであろう。少なくとも私は、人間以外に老いを労ることのできる生き物を知らない。

数年前にある議員が「生産性のない人たちは税金で支援する必要がない」というコラムを発表して話題となったが、生産性のなさでいえば、わが母も同じだろう。(いや、私も)

無用の人などいないが、百歩譲って世の中に無用の人がいるとして、そうした人もまた大切にできるのが人ではないだろうか。少なくとも私は、そういう人でありたい。

 

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