暮らしの手触り

やはらかに衰へてゆく老母との日々の暮らしの手触りいとし

 

認知症にくわえて、糖尿病・不整脈・脊椎間狭窄症など数々の病気を発症した母との暮らしは思い起こすと平坦とは言えないものだった。しかし、そのときは辛かったり、哀しかったりしたことも過ぎてしまうと懐かしくさえ思われる。

幸いなことに、亡くなる前の2,3年は比較的母の体調は良く、狭窄症の後遺症の痛みなどを訴える日も少なかった。その分認知症はすすみ、姉や私のこともほとんど分かってはいなかったと思うが、母の介護しながら送る毎日には確かな手触りがあった。

この日々をもう少し続けていきたいと思っていたが、それは叶わぬ夢となった。

 

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長生き

長生きをさせてしまつてごめんなさい  われといふ子を産みしばかりに

 

ほんとうは5年前に危篤になったときに、母の寿命は尽きていたのかも知れない。病院で夜通し付き添った姉は、心電図の波が平になるのを何度も見たそうだ。

それから母は5年生きた。それは私が心配だったからに違いない。未婚で、稼ぎも少なく、頼りない息子を一人にしておくわけにはいかないと思ったのではないだろうか。特に4年前に父が先に旅立ってしまったので、母は死ぬに死ねなくなったのだと思う。

認知症で自分がどこにいるかも分からず、そのうえ車椅子生活で身の周りのことはすべて誰かに頼らなければならない。そんな母を早く楽にさせてあげられなかった私は、とんでもない親不孝者だ。

 

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姥捨

ふとわれは姥捨をせし人間の生まれ変はりと思ふ夕暮

 

夏目漱石の『夢十夜』に、背中に負ぶった子どもが、ちょうど百年前に自分が殺した人間だと気づき、その瞬間に背中の子どもが石地蔵のように重くなるというおそろしい話がある。

この短編を読んで、仮に前世に私が人間だとしたら、どんな人間だっただろうと考えた。

そして、ふと私は前世、姥捨ての風習のあった村で、母を山に捨ててきた人間かも知れないと思った。ただ、幸いにして前世の母は、私が姥捨てをしたことを許してくれているのかも知れない。こうして母の介護をしながらも穏やかに暮らせているのだから。

それともある日、前世の自分の行為を思い出し、母が石地蔵のように重くなる日が来るのだろうか。

 

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知れる人なき

知れる人なきが悲しとつぶやきて母は食事に手をつけざりき

 

このときは私もかなしかった。いくら私は息子だと言っても、母には分からない。母の記憶の中にいる、父や祖父母や姉、妹はいない。一口も食べようとしない母を前に、もはや掛けることばがなかった。

しかし、長生きするということはこういうことなのだ。知っている人間は先に亡くなってしまって、自分だけが生き残る。長生きは、よほど孤独に強い人か、新しく出会う人とでも心を通わせることの出来る人でなくては、かえって辛かろうと母を見ていて思う。

もっとも人の寿命を決めるのはその人自身ではない。辛かろうが、淋しかろうが、生ある限り生きるほかない。

 

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演技

わすれをる演技を母はしをるやも過ち多き息子おもひて

 

本当に母は認知症なのだろうか。いや、認知症には違いないのだが、ときどき記憶が鮮明なときもあるように思う。もちろんすべての記憶が蘇ったわけではなく、いくつかの事柄を思い出すだけなのだろうが、少なくとも私のことが息子と分かり、いま、自分の置かれている立場がどういうものか認識しているときがあるのではないか。

私は生来癇癪な質で、些細なことですぐに怒ってしまう。そして、後でそんな自分が情けなくなる。母のほうは感情を表情に表わさず「なぜ怒るの?」というような顔をしているが、あれは私を落ち込ませないための演技ではなかろうか。「分かっているよ」母の目がそう言っているように思えることがある。

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ありがとう

暁に吾を父と見て母言へり「いろいろしてくれてありがとう」

 

あれには驚いた。父が亡くなって、二、三ヶ月経った頃だったろうか。真夜中に母をトイレに連れていって便器に腰掛けさせると、「お父さん」と言って、私の胸に頭をぐりぐりと押し当てた。それは思いもよらぬ愛情表現だったが、母のあふれんばかりの父への思いを感じた行動でもあった。

ちょうど同じ頃、暁に母が隣に眠っている私に向かって、「お父さん。いろいろしてくれてありがとう」と言ったのにも驚いた。母が父にこんなふうに感謝のことばを述べるのを聞いたことがなかったからだ。

母が認知症になってから、父は多くのものを犠牲にしてきたと思っていたけれど、それに見合う愛情と感謝を母から受けていたのかも知れないといまは思う。

 

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ことばなき会話

病みてことば発せられざる父の脇に体温計はさめば冷たしという顔

 

父はことばが発せられなくなっていた。ヘルパーさんが着替えで身体の向きを変えたときに「痛いよ」と言ったというのが、私の知る限り父が発した最後のことばだ。子どものころから父とは事あるごとに会話を重ねてきた。世間一般の父と子よりはるかに多くの会話をしたに違いない。それなのに、父と過ごした最後の一ヶ月にほとんど父の声が聴けなかったことが、心残りでならなかった。

しかし、ベッドで臥す父を詠んだ歌を読み返しながら、父の声は聴けなかったけれど、それでも父と会話をしていたのだと思った。

冷たい! と一瞬目を閉じて、また開いたあとの微笑みを含んだ顔は、私の知る中でも、もっとも好きな父の表情の一つだ。

 

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さばが好き!

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缶切り

缶詰が父より届くそのたびに共に入りたる缶切り増ゆる

 

父は気遣いの人であった。進学して一人暮しを始めた頃、年に数度小包を送ってくれた。中には故郷の食べ物や日用品、そして缶詰が入っていることが多かった。思い出すのは、父が送ってくれる缶詰には必ず缶切りが添えられていたことだ。電話でお礼がてら、前に缶切りは送ってもらっているからもう入れてくれなくていいと伝えても、次の回もまた入っている。母によると、「缶切りぐらいなかった向こうで買わよ」と言っても、「幸彦に手間かけさせたらあかん」と言って、缶詰を買うごと缶切りも買うということだった。

いまは、缶切りのいらない缶詰も多くなった。それでも仮に父が缶詰を送ってくるとしたら、缶切りを添えているような気がする。

 

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ミニトマト

ミニトマト母のいのちの糧となれと赤く熟るるを三つ四つ捥げる

 

母の食べられるものが少なくなってきた。肉や魚は調子のよいときは食べられるが、たいていは飲み込めず吐き出してくる。野菜はいも類とたまねぎはよく食べてくれるが、にんじん・大根などの根菜類はときどき、葉物野菜やきゅうり・ピーマンなどはほとんど吐き出してくる。葉物野菜やきゅうりが食べられないので、生野菜はほとんど母に出せなくなった。そんな中、唯一母がよく食べる生野菜がトマトだ。もっとも皮は吐き出してくるので、皮を剝く。

家庭菜園では、作りやすくて、皮も剝きやすい中玉と呼ばれる直径3センチくらいのミニトマトを作っている。今年は豊作だ。

 

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6月8日

池田小事件の日ごと歳一つとりたる母ととらぬ子ども等

 

あの日、70歳になった母は、あれから23年生きて、93歳になった。あの日以来、母が誕生日を迎えるごとに、共に日々を過ごせるよろこびを思う一方で、いつも大阪教育大附属小学校児童殺傷事件のことが胸をよぎる。小学校の教員をしていた母の誕生日に、母が教えることの多かった1年生・2年生の子どもたちが、こともあろうに学校で殺傷されてしまったという巡り合わせは偶然だとしても、その偶然によってこの事件はいっそうせつないものとして私の胸に刻まれた。

世界は不条理に満ちているとはいえ、生あるものは必ず死ぬという条理が、あのような形で小さな子どもたちに降りかかったことを思うとき、この世界を呪いたくなる。

 

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