苺という字

はつなつの苺香れるわが家のくさかんむりは今も父なり

 

母が話しかけたり、呼んだりする相手は、断トツで「お父さん」「おとちゃん」である。ときどき「お母さん」と言うこともあるので、この「お父さん」が私の父(つまり母の夫)ではなく、祖父のこともあるのかも知れないが、状況から考えると、ほとんどは父のことではないかと思われる。どこかが痛むとき、目覚めて近くに誰もいないとき、ふとしたとき、母は父を呼ぶ。そのたび今も、父が母を守り支えているのだと感じる。

「苺」という漢字は、母という字を「くさかんむり」が覆っている。まるで、くさかんむりが母を守っているかのようだ。わが家で母を守るくさかんむりは、姉や私ではなく間違いなく亡き父である。

 

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人の密度

わが母は朧なれどもぎゆつと人詰まりて人の密度は高し

 

ああ、これが母なのだ。認知症が進むにつれて、むしろ母という人の本質が見えてきたように感じる。ものわすれが始まり、財布や預金通帳を紛失したときでも、「わたしや財布どこぞへ失うた」とは言ったが、一度も誰かに盗られたとは言わなかった。機嫌の悪いことはあっても、相手を非難するような物言いはしない。まして叩いたり、手を払いのけたりといった乱暴な行為は一度もない。介護サービスの方々や子どもにもよく「ありがとう」と言う。

人間らしさ、それも人間の良質なところがいっぱい詰まっている、そんな感じがする。少なくとも私よりも母のほうが人としての密度は高い。

 

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一万回

一万回母を傷つけしその口で吐いてしまへり一万一回目のことば

 

本当は一万回どころではない。これまでどれだけ母を傷つけることばを吐いてきただろう。なかには暴言もある。誰かがそれを聞いて通報したら、私は虐待の罪に問われていたかも知れない。絶対にしないと誓って守ってこられたのは、母に手を上げないことだけだ。もう限界と思ったら、大声で泣くことにしている。泣くにせよ怒るにせよ、母に強く当たった後は、心にちくりと棘が刺さる。

それでも、すべての怒りを抑えたくはない。少なくとも「認知症だから仕方ない」という納得の仕方をしたくない。それは何か違う気がするのだ。母を一個の人間として見るなら怒るべきことをしたら怒りたい。たとえ母の心にも自分の心にも棘が刺さろうとも……。

 

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