お母さんと咲ける菫に語りかけ

 

いつの頃からか、私はすみれの花のイメージを母に重ねるようになった。すみれの花は可憐でかわらいらしく、か弱く見えるが、植物としてのすみれは、アスファルトの裂け目にも生えるたくましさがあり、また冬にも花を咲かせることもあり、けっして弱い草花ではない。

いくつもの病気を抱えながら、九十三歳まで生きた母は、菫の可憐さとたくましさを併せ持った人だったように思う。また、すみれ色は母の好きな色でもあった。

わが家の庭では、春になるとすみれが花を咲かせる。母が亡くなって初めてむかえた今年の春、すみれの花を見たとき、われ知らず「お母さん」と語りかけていた。

 

 

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わが家も減塩!

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菫程な人

菫程な小さき人とはわが母のことなり母が笑めば春なり

 

「菫程な小さき人に生まれたし」という夏目漱石の句の中の「菫程な小さき人」とは、世のしがらみを離れ、菫のようにひっそりと生きる人との解釈があるようだ。

この解釈に拠るなら、認知症になって姉や私のことさえはっきりとは認識出来なくなった母は、まさに「菫程な小さき人」であった。病の痛みやさみしさはあったかも知れないが、世のしがらみはもう一切気にする必要はなくなっていたというか、そんな意識ももう持ってはいなかっただろう。

その母の笑みは私にとっては春そのものだった。母が亡くなってはじめての春。母の笑みのごとくに咲いた菫を愛でる。

 

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