冬菫

冬菫ちよんと突いて母を看に

 

「菫程な小さき人に生れたし」(※)夏目漱石。ある解釈には、この句の「菫程な小さき人」とは、世の中のしがらみを離れ、目立たずひっそりと、しかし、たくしましく健気に生きる人とある。この解釈に触れて、私は母のことを思いうかべた。いま母は世の中のあらゆるしがらみをわすれ、小さな人になって健気にいのちをつないでいる。それ以来、すみれには他の花にない親近感を抱くようになった。

冬のすみれは、「がんばれ」と小声で励ましたくなる存在であると同時に、こちらも元気をもらえる存在である。そんな冬菫にあいさつをして、母の許へ向かう。心なしかいつもより足取りがかるい。

 

※『合本 俳句歳時記 角川書店編 第五版』より

 

 

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秋の夜

秋の夜の母の入れ歯の大・捜・索

 

ついに入れ歯は出てこなかった。車椅子のクッションの下、枕カバーの中、ティッシュの箱の中・・・これまでもなくなるたび、意外な場所から出てきた入れ歯だったが、今回はどこを探しても見つからなかった。その後母は骨折して車椅子生活となり、歯医者さんに通って入れ歯を作り直すことも出来なくなった。骨折による入院生活の影響もあっただろうが、入れ歯をなくしてから母の食は細くなり、大好きな甘い物でさえ受け付けない日も出てきた。

幸い往診してくれる歯医者さんが見つかり、入れ歯を作り直してもらえた。入れ歯が入ると母の食欲は戻り、これが九十歳を過ぎた老婆かと驚く日さえある。

 

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打水

打水をして往診の刻まだし

 

往診を待つ間というのはどこか落ち着かない。足を骨折して車椅子生活になってから、かかりつけ医が月一回往診してくださることになった。歩けなくなった母には申し訳ないが、これは正直かなり助かる。通院だと待ち時間と診察で3~4時間はみておかないといけない。往診だと通常は30分ほどで終わる。とは言え、お医者さんが家に来てくださるというのは、介護サービスの方々とは違った緊張感がある。訪問サービスは「訪問」が仕事だが、往診は特別なことをしてもらっているという感じがする。月一回というのが、さらに特別感を高める。

夏ならば、せめて打水でも……と庭に水を撒いて、今か今かと先生を待つことになる。

 

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わが父は献身の人梅真白

 

父や母を詠んだ句に「わが父」「わが母」と詠んだ句はほぼない。もっともだ。「父」「母」と書けば作者の父であることは明らか。十七音しか使えない俳句において、この「わが」の二音は浪費とも言える。それでも、私の父を他人は「わが父」とは書けない。無駄遣いとは思いつつ、これはこのままあえてブログに残しておきたい。

ことばは、生きている人間だけに届けるものではない。すでに亡くなった人間、未来に生まれてくる人間に届けることばもある。この句は亡き父に届けばそれだけでいい。

中村草田男に「勇気こそ地の塩なれや梅真白」(※) 私にとって父は、勇気であり、地の塩であり、そして真っ白な梅であった。

 

※『合本 俳句歳時記 角川書店編 第五版』より

 

 

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風邪

三分の一ほど風邪という老母

 

母の嚏は一回では終わらない。なぜか一度くしゃみが出ると、十回近く続く。そしてその後、「風邪ひいた」と言うのが口癖だ。ただ、この日は姉が、「お母さん、風邪引いたん?」と問うと、「三分の一ほど風邪」と答えた。母は認知症には違いないのだが、たまに認知機能の衰えた人にこんなことが出来るのか、と思わせる離れ業を演じる。例えば食事の時、箸がうまく使えないとフォーク、フォークがだめならスプーン、それもだめなら手で、と段階的に手段を変えたりする。

ところで掲句、俳人ならば「風邪心地」と使うところか。月野ぽぽなさんに「半身が深海となる風邪ごこち」(※1)・鈴木牛後さんに「風邪心地わが外側に誰かゐる」(※2)

※1 2010年 角川『俳句11月号』 ※2 2016年 角川『俳句11月号』

 

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虫時雨

目を閉ぢて脈をとりをる虫時雨

 

指先に神経を集中する。母の手首の親指側を押さえて脈をとる。母の脈の乱れる時は、一定の拍動がところどころ飛んだり、強い拍動に弱い拍動が混ざったりする。普段は血圧計で測定しているが、機械が教えてくれるのは脈拍数と不整脈の有無だけなので、脈がどんな傾向かは、自分の指で測らないと分からない。傾向を知ったからといって、専門知識があるわけではないので、何が分かるというわけではない。だが、血圧計の測定値と自分の測定値が一致しない時は、機械よりは自分の感覚を信じたい気持ちが私にはある。

かすかな脈も見逃すまいと目を閉じると、いままで意識していなかった虫の音が急に耳に飛び込んできた。

 

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胡瓜

臍曲げて厨に寝たるきうりかな

 

もちろん臍を曲げているのはきゅうりではない。だが、母の機嫌を損ねてしまい、食事の用意をしても「食べん!」と撥ねつけられてしまった時などは、思わずキッチンのきゅうりに「きゅうりよ、お前もか!」とでも言いたくなる。まったく……。ふて寝をしたいのはこっちだ。

もっとも介護生活の中で、こちらの経験値もあがってくるから、こういう場合の対応の仕方も引出しが増えてきた。少し間を置いて、何事もなかったかのように話しかける。母の好きな甘い物で釣る。母を放っておいて、さっさと自分だけ先に食べてしまう。

ちなみに裏庭の家庭菜園で作るきゅうりは養分が少ないと曲がりやすいように思う。

 

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亀鳴く

亀鳴けど聞こえぬ母の耳掃除

 

子どもの頃よく母が耳掃除をしてくれた。大きな耳垢が取れると嬉しそうに、「こんなんが取れた!」と取れた耳垢を見せた。医学的には耳掃除というのはする必要がなく、自然と耳垢は外に排出されるしくみになっているらしい。耳掃除をしてかえって外耳道を傷つけてしまうこともあると知って、自分はともかく母の耳掃除はしないでいた。ところが、ある時母の耳の穴を見ると耳垢で塞がっている。固まっていて耳かきでは取れない。ピンセットで摘まむと、見たこともないような大きな固まりが出てきた。高齢になると耳垢の排出機能が衰えるらしい。

ちなみに「亀鳴く」は、春の情緒を表わす季語で、実際には亀が鳴くことはない。

 

 

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冷たし

こは左そは右と着す手が冷た

 

袖の中でつかまえた母の手は冷たかった。朝、体温と血圧・脈を測り、おむつを替え、清拭をして着替えをするのだが、母がうまく袖に手を通せない時がある。そんな時は、袖口のほうから自分の手を通して母の手を迎えにいく。ヘルパーさんや看護師さんから教えていただいたやり方だ。母は左右を間違えることも多くなった。右手を出すように言うと左手を出し、左手を出すように言うと右手を出す。そこで「これは左手」「それは右手」と言いながら服を着せることになる。

波多野爽波の句に「手が冷た頬に当てれば頬冷た」。(※)「冷たい」と言いながら、温かいものが伝わってくる。ことばを尽くしてもなかなかこうはいかないだろう。俳句だ。

※『合本 俳句歳時記 角川書店編 第五版』より

 

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手にほのと桃の匂ひやおむつ替へ

 

いま母は一人では用を足せない。「おしっこ」と言われると、目の前の作業は中止してトイレに連れていかなければならない。それが炊事の最中であれば、野菜や肉を切っていた手を洗うのもそこそこに母の車椅子をトイレまで押す。間に合う時ばかりではないから、いつも紙おむつを履いてもらっている。おむつを替えようとして、ふっと自分の手の匂いに気づくことがある。その日はちょうど桃を剝いているときだった。

匂いがした時、おむつを替えながらふっとこころが緩んで自然と笑みがこぼれた。そう言えば、桃の割れ目は人間のお尻をイメージさせる。もっともそれは、老人のそれではなく赤ん坊のあのやわらかなお尻だが。

 

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