寒卵

寒卵老母の糧の限られて

 

いまの母は、肉と魚はほとんど食べない。うまく飲み込めないらしく、たいていは吐き出してくる。軟らかい肉や魚でも吐き出してくるので、母の皿にはほとんど盛らない。ミンチ状の肉か薄い豚バラ肉、お刺身などは食べられることもあるが、それもその日の調子しだいだ。まあ、調子の悪い日はご飯もパンも吐き出してきて喉を通るのはバナナかプリンぐらいなので、ことさら肉や魚に限ったことではないが……。

そうなってくると、母のタンパク源はもっぱら卵ということになる。ところで卵というもの安すぎはしないか。もちろん安いのは有難いことだが、生産者を思うと(そして産んでくれる鶏を思うと)ちょっとせつない。

 

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子規忌

子規の忌のもう一献は律さんへ

 

もし子規の時代に介護ベッドがあったら……。あるいは車椅子があったら……。もっとも子規がそれを利用できたかどうかは分からないが……。介護用具も介護サービスもない時代の介護は、今とは比べものになるまい。母八重や妹律の献身なしには子規の偉業はなし得なかったことは疑うべくもない。ふと子規の命日に酒を供えて、律さんにも一献差し上げたくなった。

「律さん」とは馴れ馴れしい呼び方だが、子規を介護していた頃の年齢を思えば、「律女」でも「律様」でもなく、親しみを込めて「律さん」と呼びたくなる。また、これは同じく介護をしている者としての共感を込めた呼び方でもある。

 

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合歓の花

老母まだおとぎの国に合歓の花

 

母が寝言をつぶやいている。その顔が笑っている。きっと楽しい夢を見ているのだろう。いまの母にとって、こうして楽しい夢を見ている時が一番幸せなのかも知れない。

認知症が進み始めた頃の母の日記が残っている。二か月にも満たない短い期間だが、それを読むと目が潤んでくる。自分の記憶が蝕まれていくことの混乱と恐怖はいかばかりだっただろう。亡くなる一、二年前の父もそうだったに違いない。何かを言いかけて「出てこん……」と深いため息をついた父の顔がわすれられない。

それでも認知症という病気を私は憎めない。何度も泣かされたが、大切なことも教えてくれている病気のようにも思える。

 

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春曙

春曙エンドレスなる母の問ひ

 

主語も目的語もない。曙に目覚めた母が、「1にしたらどうなる?」と問いかけてきた。「何を?」と尋ねたところで、母が答えないことは分かっている。なので適当に「そら、2にならよ」と答えてみた。すると、「2にしたらどうなる?」と返してきた。こうなれば続けるしかない。3・4・5・6……と続けて、10ぐらいで寝たふりをした。母はまだ一人何か喋っていたが、本当に眠ってしまったので以後は分からない。

無意味ではあるが、一応はこれもことばのキャッチボールと言えようか。近ごろ稀になった貴重な母との会話の時間とも言える。いつか「あの時せめて50まで会話しておけばよかった」と思う日が来るのかも知れない。

 

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雪女

雪女出でぬか母狂へるいま

 

とは言え雪女にも都合はあろうが、母をどう宥めても収まらない日などは、いっそ雪女でも現れてくれないか思うことがあった。いまはもう立って歩くこともないし、夜中に喋るといっても、放っておいてもいいような内容だからかまわない。だが、まだ歩ける頃、夜中に起き出して家へ帰るなどと言って聞かないときは、もう泣きたいような気持ちだった。(実際、何度も泣いた)

歳時記には、「雪女(雪女郎)」は架空の季語とあるが、こちとら架空を生きる母と暮らしているので、もし本当に現れても驚かないと思う。いや、嘘です。臆病者なので震えるに違いないが、雪女が文脈なき母にどう接するか、見てみたい気もする。

 

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星月夜

さみしさが母から香る星月夜

 

身体がさみしさを発している。その夜、ベッドに三日月のような形で眠っている母は鮮烈だった。認知症で何も分からないとか、連れ合いを亡くしたとか、年老いたとか、そんなさみしさではなく、まるで存在していることのさみしさとでも言うようなものが母の身体から溢れていた。人間はみな個であることを保障されねば人間らしく生きられないが、個であることは同時に孤独を引き受けることでもある。一方で、人間の個は他との関係性なしには立ち上がらず、他人の存在なしに自己などというものも存在しない。

たった一人はさみしい。だが、家族といても、恋人といても、友人といても、人間である限りさみしいのだと思う。

 

 

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素足

浮腫なき母の素足の小さきこと

 

母の足は夏でも冷たい。そして、いつもむくんでいる。心臓の機能が衰えてきているうえに、歩くこともなくなったから、血液の循環が悪いのだと思う。訪問リハビリや訪問看護の方がいつもマッサージしてくださるが、むくみのない日はほとんどなかった。

それがなぜか、昨年(令和5年)の5月ぐらいから急に足のむくみが消えた。生活の何かを変えたわけでもなく、なぜむくみがとれたのかは不明だ。取り組んできた減塩や、毎日するようになった足湯の効果だとしたら嬉しいが、徐々に減ったのではなく、急にむくみが消えて、それ以降はむくまなくなった。

こんな足だったのか。むくんだ足ばかり見てきたので、改めて母の足をみてそう思った。

 

 

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紙風船

紙風船しぼみて子なる時了る

 

母が私の名前を呼ぶことはほとんどない。息子だと認識している時間はあるようだが、名前はわすれてしまって、もう出てこないようだ。私が「幸彦です」というと、「そうや、幸彦さんや」ということはあるが、おそらく一日の大半は親切などこかの人(時に怒る怖いおいやん)と思っているのではないだろうか。ときどき「お父さん」と呼ばれる。母は父が死んだことを認識していないので、長く傍にいる人=父と認識しているのかも知れない。父と私の背格好も、頭が禿げていることも似ているからかも知れないが・・・。

母が私を父と思い、多少なりともさみしさを感じずにいられるとしたら幸いだが、やはり子どもとして頼られたいというのが本音だ。

 

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冬菫

冬菫ちよんと突いて母を看に

 

「菫程な小さき人に生れたし」(※)夏目漱石。ある解釈には、この句の「菫程な小さき人」とは、世の中のしがらみを離れ、目立たずひっそりと、しかし、たくしましく健気に生きる人とある。この解釈に触れて、私は母のことを思いうかべた。いま母は世の中のあらゆるしがらみをわすれ、小さな人になって健気にいのちをつないでいる。それ以来、すみれには他の花にない親近感を抱くようになった。

冬のすみれは、「がんばれ」と小声で励ましたくなる存在であると同時に、こちらも元気をもらえる存在である。そんな冬菫にあいさつをして、母の許へ向かう。心なしかいつもより足取りがかるい。

 

※『合本 俳句歳時記 角川書店編 第五版』より

 

 

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秋の夜

秋の夜の母の入れ歯の大・捜・索

 

ついに入れ歯は出てこなかった。車椅子のクッションの下、枕カバーの中、ティッシュの箱の中・・・これまでもなくなるたび、意外な場所から出てきた入れ歯だったが、今回はどこを探しても見つからなかった。その後母は骨折して車椅子生活となり、歯医者さんに通って入れ歯を作り直すことも出来なくなった。骨折による入院生活の影響もあっただろうが、入れ歯をなくしてから母の食は細くなり、大好きな甘い物でさえ受け付けない日も出てきた。

幸い往診してくれる歯医者さんが見つかり、入れ歯を作り直してもらえた。入れ歯が入ると母の食欲は戻り、これが九十歳を過ぎた老婆かと驚く日さえある。

 

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