汗だくの介助も母の尿ちよろり

 

「おしっこがしたい」と言われてトイレに連れていくのだが、いざトイレに行くと尿が出ないということが母にはよくあった。そこでベッドに戻ってしばらくすると、また「おしっこがしたい」と言う。それでまたトイレに連れていくのだが、足が萎えてからはその度ベッドから車椅子に移乗して、またトイレで車椅子から便器に移さないといけないから、夏などはそれだけで汗だくになってしまう。

そうやってトイレに連れていって、「ちょろり」っと音がしてそれで終わりだと、「こっちの流した汗の量と変わらんやないか」と思ったものだ。

しかし、いま思うと介護というのは、その「ちょろり」のために汗を流す行為なのかもしれない。

 

<広告>

わが家も減塩!

にほんブログ村 介護ブログへ
にほんブログ村

にほんブログ村 ポエムブログ 俳句へ
にほんブログ村

はじめての母なき春や星潤む

 

季節はめぐるもので、今年還暦となった私は、もう春夏秋冬を何十回となく春をむかえてきたけれど、母のいない春をむかえるのは今年はじめてだった。

生きていたとしても、大腿骨の骨折をしてからの母は車椅子生活だったし、認知症もすすんで何かに感動することもなくなっていたから、桜を見に連れ出すこともなかっただろうが、それでも春というこころ弾みのある季節を母と一緒にむかえられないのはさみしかった。

右城暮石に「妻の遺品ならざるはなし春星も」

夜空を見上げて、ふとこの句を思い出し、私にとって春の星は、母の遺品か、それとも母そのものか、そんなことを考えた。

 

<広告>

わが家も減塩!

にほんブログ村 介護ブログへ
にほんブログ村

にほんブログ村 ポエムブログ 俳句へ
にほんブログ村

震災忌

ただ独り逃ぐる身となり震災忌

 

つい最近も青森県で大きな地震があった。戦争や災害の報道に接するたび、ああきっと戦地にも被災地にも、肉親の介護をしている人がいるに違いない。危険が迫っても逃げるに逃げらず、途方に暮れているのではないかなどと考える。私自身も母が生きていた頃は、自分たちも被災したらどうしたものだろう。とても母を連れて避難所には行けそうもない・・・などと考えを巡らしたものだ。

母が死んでしまったいまは、そんな思案を巡らす必要もなくなった。わが身ひとつ、とにかく安全な場所に逃れることだけ考えればよい。こころが軽いと言えば軽いが、やはり一方ではさみしくもある。

 

<広告>

わが家も減塩!

にほんブログ村 介護ブログへ
にほんブログ村

にほんブログ村 ポエムブログ 俳句へ
にほんブログ村

薄暑

老母にも汗かかせたき薄暑かな

 

不整脈のある母には温度差がないほうがよいと考えて、わが家では春、秋のある時期を除いては、年中エアコンをつけて室温を一定に保っていた。そのせいか、ほとんど母が汗をかくのを見なくなった。もしかしたら、冷房を入れることによって汗をかかなくなり、汗腺機能が衰えてしまっていたのかも知れない。よかれと思ってやっていたことが母の身体にとって、よかったのかどうか・・・。

風薫る初夏のさわやかな日など、母を車椅子で外に連れ出して、うっすらと汗をかかせてやりたいと思うことがあったが、結局それも果たせないままに終わってしまった。

俳句に詠むより実践することこそが「徘介護」だったといま改めて反省している。

 

<広告>

にほんブログ村 介護ブログへ
にほんブログ村

にほんブログ村 ポエムブログ 俳句へ
にほんブログ村

春灯

春灯やこの椅子に母ここに父

 

父が亡くなって五年余り、母が亡くなって一年、いまだに二人の死を乗り越えたとは言い難い。

端的にいうと毎日が面白くない。たとえば仕事が早く終わった日、「さあ、これから帰って父と一杯やれる」というときの父がいない。たとえば日曜日、「今日は天気もよいし、父と母とどこかへ行こうか」などというときの父も母もいない。おいしいものを食べても一人、うつくしいものを見ても一人、日々の生活に“張り”がない。

そのうえ母が亡くなって、俳句がほとんど詠めなくなった。俳介護をはじめてからの四年間、巧拙は別としても7400句あまりを詠めたのに、亡くなってからの1年間、詠めたのは100句足らず、結局のところ私の俳句は文字通り「俳介護」だっということか。

 

にほんブログ村 介護ブログへ
にほんブログ村

にほんブログ村 ポエムブログ 俳句へ
にほんブログ村

寒し

鍵開くる音響きけり寒き家

 

母が亡くなって一年余り。いまだに一人暮らしに慣れない。中学校入学と同時に下宿して親元を離れた私だが、四十歳の頃両親とまた同居することになって以来、家に帰ればいつも父と母がいたし、父が亡くなってからは、私が仕事から帰るまで姉かヘルパーさんが母の面倒をみてくれていたから、帰ってきて自分で家の鍵を開けるということもなければ、帰ってきて部屋を冷やしたり暖めたりすることもなかった。いつ帰っても、鍵は開いていて、夏は冷房、冬は暖房が入っていた。

母が死んで、姉もヘルパーさんも家には来なくなったから、当然ながら自分で鍵を閉めて家を出て、自分で鍵を開けて家に入る。鍵を開けるカチャリという音が響くと、「ああ、独りなんだなあ・・・」と実感する。

<広告>

にほんブログ村 介護ブログへ
にほんブログ村

にほんブログ村 ポエムブログ 俳句へ
にほんブログ村

もう良きかと尋ねて母は秋に逝く

 

2024年9月30日に母は旅立った。その二週間ほど前だったか、姉から「この間おかちゃんが急に『わたしやもう死んでもええか』って言うた」と聞かされた。この頃の母は姉のことは認識できなくなって、しばしば他所の人のように接することが多かったというが、このときは確かに姉だと認識して言ったようだ。

少し気にはなったが、まさか本当に逝くとは思わなかった。亡くなってみると、きっと母はもうとっくに限界を超えて生きてくれていたのだと思った。ただ、なぜ母がこの年に逝くことにしたのか、それが分からない。息子である私はもう自分がいなくても大丈夫だと思ったのか? それともまだまだ心配だが、これ以上はもう付き合いきれないと思ったのだろうか?

 

<広告>

わが家も減塩!

にほんブログ村 介護ブログへ
にほんブログ村

にほんブログ村 ポエムブログ 俳句へ
にほんブログ村

打水

水打たむ母在らざらむ日のわれも

 

母が生きていたときにこの句を詠んだ。往診の医師を迎えるとき、母に癇癪を起こしてしまった自分の気持ちを鎮めるとき、私は庭に打水をした。

いつか母は死んでしまうだろうが、それでも夏になったら打水をしよう。母のことを思い出しながら・・・・・・。そんな気持ちでこの句を詠んだ。

しかし、母を亡くして迎えたはじめての夏、私は一度も打水をしなかった。正直、この句のことはわすれていた。もっとも仮に覚えていて打水をしたとしても、さみしさを募らすだけだっただろうから、わすれていたことは幸いかもしれない。

いつか母のことを思い出しながらも、おだやかな気持ちで打水のできる、そんな日がくることを願っている。

 

にほんブログ村 介護ブログへ
にほんブログ村

にほんブログ村 ポエムブログ 俳句へ
にほんブログ村

お母さんと咲ける菫に語りかけ

 

いつの頃からか、私はすみれの花のイメージを母に重ねるようになった。すみれの花は可憐でかわらいらしく、か弱く見えるが、植物としてのすみれは、アスファルトの裂け目にも生えるたくましさがあり、また冬にも花を咲かせることもあり、けっして弱い草花ではない。

いくつもの病気を抱えながら、九十三歳まで生きた母は、菫の可憐さとたくましさを併せ持った人だったように思う。また、すみれ色は母の好きな色でもあった。

わが家の庭では、春になるとすみれが花を咲かせる。母が亡くなって初めてむかえた今年の春、すみれの花を見たとき、われ知らず「お母さん」と語りかけていた。

 

 

<広告>

わが家も減塩!

にほんブログ村 介護ブログへ
にほんブログ村

にほんブログ村 ポエムブログ 俳句へ
にほんブログ村

介護終え皹のなきわが手かな

 

ここ四、五年あまり、冬になると毎年のように皹が出来ていた。私の場合、手の指の付け根の関節や中の関節や親指の指先のところがよく裂けた。

皹は皮膚のバリア機能が低下することで起こるという。母の下の世話などで頻繁に手洗いやアルコール消毒をしていたから、手の皮脂が洗い流されてバリア機能が低下したところへ、冬場の空気の乾燥や気温の低下が重なって、皹が出来やすくなっていたのだろう。

昨年の9月30日に母が亡くなり、むかえた冬は、ほとんど皹が出来なかった。私の皹は、介護をしていた証だったのだ。そう思って、皹のない手を見つめると、なんだかさみしかった。

 

にほんブログ村 介護ブログへ
にほんブログ村

にほんブログ村 ポエムブログ 俳句へ
にほんブログ村