寒し

鍵開くる音響きけり寒き家

 

母が亡くなって一年余り。いまだに一人暮らしに慣れない。中学校入学と同時に下宿して親元を離れた私だが、四十歳の頃両親とまた同居することになって以来、家に帰ればいつも父と母がいたし、父が亡くなってからは、私が仕事から帰るまで姉かヘルパーさんが母の面倒をみてくれていたから、帰ってきて自分で家の鍵を開けるということもなければ、帰ってきて部屋を冷やしたり暖めたりすることもなかった。いつ帰っても、鍵は開いていて、夏は冷房、冬は暖房が入っていた。

母が死んで、姉もヘルパーさんも家には来なくなったから、当然ながら自分で鍵を閉めて家を出て、自分で鍵を開けて家に入る。鍵を開けるカチャリという音が響くと、「ああ、独りなんだなあ・・・」と実感する。

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もう良きかと尋ねて母は秋に逝く

 

2024年9月30日に母は旅立った。その二週間ほど前だったか、姉から「この間おかちゃんが急に『わたしやもう死んでもええか』って言うた」と聞かされた。この頃の母は姉のことは認識できなくなって、しばしば他所の人のように接することが多かったというが、このときは確かに姉だと認識して言ったようだ。

少し気にはなったが、まさか本当に逝くとは思わなかった。亡くなってみると、きっと母はもうとっくに限界を超えて生きてくれていたのだと思った。ただ、なぜ母がこの年に逝くことにしたのか、それが分からない。息子である私はもう自分がいなくても大丈夫だと思ったのか? それともまだまだ心配だが、これ以上はもう付き合いきれないと思ったのだろうか?

 

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打水

水打たむ母在らざらむ日のわれも

 

母が生きていたときにこの句を詠んだ。往診の医師を迎えるとき、母に癇癪を起こしてしまった自分の気持ちを鎮めるとき、私は庭に打水をした。

いつか母は死んでしまうだろうが、それでも夏になったら打水をしよう。母のことを思い出しながら・・・・・・。そんな気持ちでこの句を詠んだ。

しかし、母を亡くして迎えたはじめての夏、私は一度も打水をしなかった。正直、この句のことはわすれていた。もっとも仮に覚えていて打水をしたとしても、さみしさを募らすだけだっただろうから、わすれていたことは幸いかもしれない。

いつか母のことを思い出しながらも、おだやかな気持ちで打水のできる、そんな日がくることを願っている。

 

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お母さんと咲ける菫に語りかけ

 

いつの頃からか、私はすみれの花のイメージを母に重ねるようになった。すみれの花は可憐でかわらいらしく、か弱く見えるが、植物としてのすみれは、アスファルトの裂け目にも生えるたくましさがあり、また冬にも花を咲かせることもあり、けっして弱い草花ではない。

いくつもの病気を抱えながら、九十三歳まで生きた母は、菫の可憐さとたくましさを併せ持った人だったように思う。また、すみれ色は母の好きな色でもあった。

わが家の庭では、春になるとすみれが花を咲かせる。母が亡くなって初めてむかえた今年の春、すみれの花を見たとき、われ知らず「お母さん」と語りかけていた。

 

 

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介護終え皹のなきわが手かな

 

ここ四、五年あまり、冬になると毎年のように皹が出来ていた。私の場合、手の指の付け根の関節や中の関節や親指の指先のところがよく裂けた。

皹は皮膚のバリア機能が低下することで起こるという。母の下の世話などで頻繁に手洗いやアルコール消毒をしていたから、手の皮脂が洗い流されてバリア機能が低下したところへ、冬場の空気の乾燥や気温の低下が重なって、皹が出来やすくなっていたのだろう。

昨年の9月30日に母が亡くなり、むかえた冬は、ほとんど皹が出来なかった。私の皹は、介護をしていた証だったのだ。そう思って、皹のない手を見つめると、なんだかさみしかった。

 

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ピーマン

ピーマンのやさしさ種をくつろがす

 

一昔前、ピーマンという語は「中身が空っぽ」という比喩で使われた。「頭がピーマン」「話がピーマン」といった具合だ。

しかし、このピーマンの空洞こそ「大いなる空っぽ」である。そして、ふと母はピーマンのような人だと思った。「幸彦、太陽っていうんは一個しかないんか?」などと子どものようなことを尋ねる人で、世の中の常識に対して驚くほど無知なところがあり、その意味で空っぽなところがある人だった。だが、そのお陰か私は母から強い束縛を受けたり、過度な期待をかけられたりすることがなく、自由な生き方をさせてもらえた。

まさに母はピーマン、私はその広い懐の中で育てられた種であったと思う。

 

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薄氷

亡き母の夢見し朝や薄氷

 

亡き父の夢はよく見るのに、亡き母の夢を見ることは少ない。むしろ母が生きていたときのほうが、母の夢をよく見たような気がする。そのうえ、どういうわけか母の夢はあまりよく覚えていない。父の夢は今でも覚えているものがいくつもあるのに、母の夢で覚えているものはほとんどない。母の夢で覚えているものは、父と二人で出てきたり、姉と二人で出てきたりする夢ばかりで、母一人が出てきた夢はなぜか見てもわすれてしまう。

実は、今朝も母の夢を見た。目覚めたときはまだ外は暗かった。そのときは確かに夢の内容を覚えていたはずなのに、日が昇る頃にはもう夢の中身が思い出せない。なんとももどかしい。

 

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冬銀河

冬銀河われの使命のまだ見えず

 

私は、生まれてきた以上は人にはなんらかの使命があるのではないかと思っている。それを考えることは大変なことだが、母を介護している間はそれをわすれていられた。いま自分のすべきことは母に添うこと。そう自分を納得させられたからだ。

しかし、母が亡くなると、一時保留にしていたこの難題をまた考えねばならなくなった。自分はいったい何のために生きているのか、この先いったい何をすればいいのか。若い頃よりも還暦を過ぎたいまのほうがより見えなくなったような気がする。

もう先延ばしする時間もそんなにはないのだが、とりあえずいまは母が亡くなるまでの家族の物語を小説という形で記すこと、それだけを遂げておきたいと思い、毎日書き続けている。

※ 「喜怒哀楽の俳介護+」で 連載小説『私の 母の 物語』  四十六 (284)|@haikaigo を掲載中

 

 

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病む母に添ひてこころは旅の秋

 

父が亡くなってから、姉が来てくれない日曜・祝日は買い物など短い時間の外出以外はどこにも出かけられず、一日母に添う生活だった。これが約四年半続いた。

残暑もおさまり、心地よい秋風が吹きはじめると、風が旅に誘っているようで、「母が死んだらどこか旅にでも出ようか。どこに行こうか」など考えたこともあった。

実際に母が亡くなると、そんな旅心はどこへやら、いまもまだ遠出をする気持ちにはならないが、それでもちょこちょこと日帰り旅行ぐらいには出かけられるようになってきた。

たぶんいずれは遠いところへも旅するようになるのだろう。そして、そうなった時には、在りし日の母との日々を思い出すことが、私にとっての旅となるのかもしれない。

 

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涼し

客の菓子食うて涼しき顔の母

 

訪問看護師さんや訪問リハビリの理学療法士さんが来てくれる日は、一段落すると皆でお茶の時間を設けていた。日々の楽しみらしきものがない母にとって、甘い物を食べるのが唯一の楽しみであった。

それを知っている看護師さんや理学療法士さんたちはよく自分の分のお菓子を母に勧めてくれた。もはや子ども同然で遠慮会釈もわすれてしまっている母はそれをさも当然のように口に入れる。時には勧められる前からお客の菓子に手を伸ばす。

さて、掲句は俳句としては駄句である。「涼し」は時候の季語であり、本意は暑さの中の凉ということだ。それを「涼しい顔」という慣用表現としてつかっては季語とは呼べまい。だが、私はもはや秀句にはこだわらない。俳介護はこれでいい。

 

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