冬銀河

冬銀河われの使命のまだ見えず

 

私は、生まれてきた以上は人にはなんらかの使命があるのではないかと思っている。それを考えることは大変なことだが、母を介護している間はそれをわすれていられた。いま自分のすべきことは母に添うこと。そう自分を納得させられたからだ。

しかし、母が亡くなると、一時保留にしていたこの難題をまた考えねばならなくなった。自分はいったい何のために生きているのか、この先いったい何をすればいいのか。若い頃よりも還暦を過ぎたいまのほうがより見えなくなったような気がする。

もう先延ばしする時間もそんなにはないのだが、とりあえずいまは母が亡くなるまでの家族の物語を小説という形で記すこと、それだけを遂げておきたいと思い、毎日書き続けている。

※ 「喜怒哀楽の俳介護+」で 連載小説『私の 母の 物語』  四十六 (284)|@haikaigo を掲載中

 

 

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病む母に添ひてこころは旅の秋

 

父が亡くなってから、姉が来てくれない日曜・祝日は買い物など短い時間の外出以外はどこにも出かけられず、一日母に添う生活だった。これが約四年半続いた。

残暑もおさまり、心地よい秋風が吹きはじめると、風が旅に誘っているようで、「母が死んだらどこか旅にでも出ようか。どこに行こうか」など考えたこともあった。

実際に母が亡くなると、そんな旅心はどこへやら、いまもまだ遠出をする気持ちにはならないが、それでもちょこちょこと日帰り旅行ぐらいには出かけられるようになってきた。

たぶんいずれは遠いところへも旅するようになるのだろう。そして、そうなった時には、在りし日の母との日々を思い出すことが、私にとっての旅となるのかもしれない。

 

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涼し

客の菓子食うて涼しき顔の母

 

訪問看護師さんや訪問リハビリの理学療法士さんが来てくれる日は、一段落すると皆でお茶の時間を設けていた。日々の楽しみらしきものがない母にとって、甘い物を食べるのが唯一の楽しみであった。

それを知っている看護師さんや理学療法士さんたちはよく自分の分のお菓子を母に勧めてくれた。もはや子ども同然で遠慮会釈もわすれてしまっている母はそれをさも当然のように口に入れる。時には勧められる前からお客の菓子に手を伸ばす。

さて、掲句は俳句としては駄句である。「涼し」は時候の季語であり、本意は暑さの中の凉ということだ。それを「涼しい顔」という慣用表現としてつかっては季語とは呼べまい。だが、私はもはや秀句にはこだわらない。俳介護はこれでいい。

 

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冷たし

病みてことば発せられざる父の脇に体温計はさめば冷たしといふ顔

 

昨年の11月末からnoteというメディアプラットフォームに「わたしの 母の 物語」という小説を連載している。もともとは10年ほど前に認知症になった母のことを記しておこうと書いたものだが、それに加筆してもう8ヶ月連載している。6月中旬から8月初旬まで父の臨終にまつわる出来事を記しているが、上記の歌は寝た切りになりもうことばを発せられなくなった父の体温を測ったときのことを詠んだものである。

ことばを発せられなくなった父はほとんど目だけで意思表示をしていたが、不思議なことに重篤になる前のことばを発していた時よりもこのほうが父の言いたいことがよく解るような気がした。

 

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菜の花

菜の花や母不治なれば明るき家

 

実はこの句は母を詠んだものではない。水田の中の一角に鮮やかな菜の花畑を見つけたとき、その明るさの中にふっと陰のようなものを感じた。そこからある物語が浮かんだ。

それは母親が不治の病で余命宣告を受けた家族が、残された母親との時間を慈しもうとしている姿である。残された時間は限られている。だからこそ、出来る限り明るく楽しく母との時間を過ごしたい。

そんな想像で詠んだ句ではあるが、母が認知症と診断されてからのわが家と重なる部分もある。認知症はいまのところ治らない病気である。だから、そのことを嘆いても仕方がない。母が認知症であっても、楽しめることを模索しながら共に暮らしていこうと家族一丸となって頑張ってきた。わが家もまた「明るき家」であった。

※ この作品は第26回NHK全国俳句大会入選作品集に掲載されています。

 

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冴ゆ

冴ゆる夜や音立てたるは吾のみにて

 

父が亡くなってから母が亡くなるまでの四年余り、一日も欠かさず母の介護ベッドの隣に布団を敷いて眠った。ときに母は、私を父だと思って話しかけてきたり、幻に向かって話しかけたり、誰に話しかけるでもなく一人で話し続けたり、なかなか眠らせてくれないこともあったが、独り言だろうと寝言だろうと寝息だろうと、音を立てるということは、母が生きている証に違いなかった。

自分以外の誰かが音を立てているときには、自分の立てる音はそれほど意識しない。だが一人きりになって、自分以外に音を立てるものがなくなると、自分は毎日こんなにも音を立てているのだと気づかされる。

冴ゆる夜、静寂のなかで、己の立てる音を聞く。さみしさが寒さのように身にしみる。

 

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露の夜や亡き人ばかり母呼びて

 

母が眠ってくれているときが自分の時間だった。一人では起き上がることさえ出来ない。楽しみと言えば、甘いものを食べることぐらいしかない。そんな母にせめてさみしい思いをさせまいと出来るだけ傍にいようと考えていたが、結局は自分の時間が欲しくて、眠っている母が目を覚ました時など、もう少し寝ていてくれたらと思ったものだ。

目を覚まして傍に誰もいない母が、自分に近しい人を片っ端から呼ぶことがある。亡き祖父母、亡き夫、亡き姉、亡き妹。生きている私が呼ばれることはほとんどない。

母もさみしかっただろうが、私もさみしかった。だが、いまとなっては私にさみしい思いをさせるのも、そのさみしさを癒やしてくれたのも母で、逆に私は母のさみしさを癒やすことは何一つ出来なかった。

 

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遠泳

岸見えぬ遠泳のごと介護とは

 

親の介護をしていて心が折れそうになるときは、終わりが見えないと感じるときではないかと思う。それはまるで岸の見えない遠泳をしているような感覚だ しかも岸にたどり着くということは、すなわち介護している親が死ぬということなのである。心が折れそうになるのも無理はない。

それでも多くの人は、岸に着く前に溺れてしまう不安と闘いながら泳ぎ続ける。終わりが見えないからといって、ぷかぷかと海に浮かんでいるゆとりは介護にはない。

もっとも私の場合、泳ぎ着いたというより流れ着いたというようなものだが、友人たちの中にはまさにいま遠泳をしている人たちがいる。どうか無事に泳ぎ切ってくれることを祈るばかりだ。

 

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初音

体温計の音待ちをれる初音かな

 

毎朝母の体温と血圧と脈を測りそれを記録するということを約5年続けたが、母の死とともにその日課も終わった。エクセルで表を作成し、手書きで記入したその記録紙は約5年分で60枚余りある。もう母も亡くなってしまったので捨ててもかまわないのだが、なんとなく捨てがたくて、いまも残してある。

あれは母が亡くなった年の春のことだったか。母の脇に体温計をはさみ、体温が検知できた知らせのピピピピという音を待っていたら、どこからか「ホーケキョ」という鶯の鳴く声が聞こえてきた。それはその年初めて聞いた鶯の鳴き声であった。

介護に追われてときに季節さえもわすれそうになったときもあるが、その都度木々や花や鳥や虫たちが季節を思い出させてくれた。

 

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寒さ

出づるより母思はるる寒さかな 

 

不整脈のある母の心臓の負担をすこしでも減らそうと、わが家は春や秋の一、二ヵ月を除いては、ほぼ一年中冷暖房をつかって室温を一定に保っていた。

それでも外気温の変化は、少なからず心臓に影響を与えると訪問看護師さんからうかがっていたので、急に暑くなったり寒くなったりした日は不整脈が出ないかどうか心配だった。

この日仕事に行くために、暖房のきいた家の中から外へ出たら、思いのほか外が寒かった。ふと母のことが心配になって、後ろ髪引かれる思いで仕事に向かった。

母亡きいま、そんな心配はなくなったが、心配せずに済むことがなんともさみしい。

 

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