盗られしと一度たりとも訴へず母は財布を無くせしといふ
母はこころの美しい人であった。わたしがそう思うのは、認知症になってからの母がなんの忖度も遠慮もなく、自分の感じたままを率直に表現しながらも、人を非難したり、疑ったりすることばをひと言も口にしなかったからである。
認知症の人の中には、自分が財布をどこに置いたかわすれたときに「財布を盗まれた」という人も少なからずいるという。しかし母は「わたしの財布どこぞへいてしもた」とか「わたしや財布なくした」とかいっても、「盗られた」といったことは一度もなかった。
もちろんことばのやり取りの中で、腹の立つことやつらいこともあったが、母の心根の美しさがよく分かっていたから、母を嫌いになることは一度もなかった。
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