人の密度

わが母は朧なれどもぎゆつと人詰まりて人の密度は高し

 

ああ、これが母なのだ。認知症が進むにつれて、むしろ母という人の本質が見えてきたように感じる。ものわすれが始まり、財布や預金通帳を紛失したときでも、「わたしや財布どこぞへ失うた」とは言ったが、一度も誰かに盗られたとは言わなかった。機嫌の悪いことはあっても、相手を非難するような物言いはしない。まして叩いたり、手を払いのけたりといった乱暴な行為は一度もない。介護サービスの方々や子どもにもよく「ありがとう」と言う。

人間らしさ、それも人間の良質なところがいっぱい詰まっている、そんな感じがする。少なくとも私よりも母のほうが人としての密度は高い。

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手にほのと桃の匂ひやおむつ替へ

 

いま母は一人では用を足せない。「おしっこ」と言われると、目の前の作業は中止してトイレに連れていかなければならない。それが炊事の最中であれば、野菜や肉を切っていた手を洗うのもそこそこに母の車椅子をトイレまで押す。間に合う時ばかりではないから、いつも紙おむつを履いてもらっている。おむつを替えようとして、ふっと自分の手の匂いに気づくことがある。その日はちょうど桃を剝いているときだった。

匂いがした時、おむつを替えながらふっとこころが緩んで自然と笑みがこぼれた。そう言えば、桃の割れ目は人間のお尻をイメージさせる。もっともそれは、老人のそれではなく赤ん坊のあのやわらかなお尻だが。

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元旦

元旦も老母の背中掻いてをり

 

季節も月日も時間も母には関係ない。ただ、内なる要求のままに、食べて寝て排泄する。周囲が母のペースに合わせられるなら、認知症であっても、それなりに生きられるのかも知れない。だが、少なくとも姉や私は社会一般の暦と時計で生活している。すべてを母に合わせていたら、こちらの生活が成り立たない。私にできるのは、できる限り「遊びの時間」をもっておいて、少しでも母のペースに合わせられるようにすることだ。その母のための「遊びの時間」を、しばしば自分の時間にしてしまう私ではあるが……。

とは言え、正月から母の背中を掻けるのは幸せなことだ。能登で大地震のあった二〇二四年の新年は殊更その思いが深い。</p<

 

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