初音

体温計の音待ちをれる初音かな

 

毎朝母の体温と血圧と脈を測りそれを記録するということを約5年続けたが、母の死とともにその日課も終わった。エクセルで表を作成し、手書きで記入したその記録紙は約5年分で60枚余りある。もう母も亡くなってしまったので捨ててもかまわないのだが、なんとなく捨てがたくて、いまも残してある。

あれは母が亡くなった年の春のことだったか。母の脇に体温計をはさみ、体温が検知できた知らせのピピピピという音を待っていたら、どこからか「ホーケキョ」という鶯の鳴く声が聞こえてきた。それはその年初めて聞いた鶯の鳴き声であった。

介護に追われてときに季節さえもわすれそうになったときもあるが、その都度木々や花や鳥や虫たちが季節を思い出させてくれた。

 

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寒さ

出づるより母思はるる寒さかな 

 

不整脈のある母の心臓の負担をすこしでも減らそうと、わが家は春や秋の一、二ヵ月を除いては、ほぼ一年中冷暖房をつかって室温を一定に保っていた。

それでも外気温の変化は、少なからず心臓に影響を与えると訪問看護師さんからうかがっていたので、急に暑くなったり寒くなったりした日は不整脈が出ないかどうか心配だった。

この日仕事に行くために、暖房のきいた家の中から外へ出たら、思いのほか外が寒かった。ふと母のことが心配になって、後ろ髪引かれる思いで仕事に向かった。

母亡きいま、そんな心配はなくなったが、心配せずに済むことがなんともさみしい。

 

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稲の花

平凡に生きられぬ世や稲の花

 

戦後八十年。日本の国内では戦争はなかった。第二次世界大戦後も、国内での紛争や外国による侵略、独裁的な政権による弾圧などで苦しんでいる国の人々を思うと、本当にそれだけでも幸せなことだ。

そんな世界から見れば平穏な日本という国にも、地震や洪水などの大災害や、航空機や鉄道や自動車などの事故や、凶悪な犯罪、卑劣な詐欺などに苦しめられたり、命を奪われたりする人々がいる。

そうした人々に比べれば、認知症になってしまったとはいえ、父や母の生涯は恵まれたものであったには違いないが、それにしても、こんな平和ボケと云われるような国でさえ、平凡に生き、平凡に死んでいくことのなんとむずかしいことかと思わずにはいられない。

 

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涼風

涼風の夢を見ている寝顔かな

 

もう姉のことも私のことも、もしかしたら自分が誰かさえもはっきり分からなくなっていた母にとって、目覚めている時間と眠っている時間、どちらが幸せだっただろう。

もちろん悪夢にうなされる日もあったには違いないが、それでも母がいかにも楽しそうに寝言を言っているのを何度も耳にしたことがある。それが夏の昼間なら、その心地よさそうな顔はまるで涼風に吹かれているようであった。

幸せそうな母の寝顔。それを見ることは私のこころ救われる時間である同時に、一抹のさみしさを感じる時間でもあった。目覚めて私と過ごしているときに、母はこんな顔をしてくれることはもうないだろうと思われたから。

 

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豆の花

この日々の手触りいとし豆の花

 

11月8日に、まったく同じモチーフの短歌を掲載したので、二番煎じのような作品になってしまうが、同じモチーフの短歌バージョンと俳句バージョンというふうに受け止めていただけたら有難い。

日々の手触りとは、時という無形のものと、自分や自分に関わる人びとや物という有形のものが一体化して確かにそこに「在る」と感じられることとでも表現したらよいだろうか。いずれにせよこれまでの暮らしを振り返ると、手触りのある日々と手触りのない日々がある。

それらの中でも母が亡くなる前の3年程の生活は、時と母と自分とが確かに「在る」ことを実感できる日々であり、それはもう触れることができないだけに「手触り」と表現するにふさわしい日々である。

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母と子で名告り合ひたる朝の霜

 

母がいつも目覚めたときに、わたしを知らない人だと思って驚いたり、怖がったりしてはいけないと思って、「幸彦です」と名告ることにしていた。それで分かるときもあれば、名前を聞いても自分の息子だと分からずによその人だと思っているようなときもあって、ある日「幸彦です」と名告ると、母もまた「和子です」と名告った。その母の律儀な名告りぶりが妙に面白かった。

目覚めた母の記憶は、霜に覆われたように真っ白で、それが徐々に解けていって、ああ、そうだ、これは私の息子だったというように思い出すのかもしれないとそのとき思った。もっともその霜は冬に限ったことではなく、季節を問わず、母の記憶を覆ってはいるが……。

 

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葛の花

葛の花われに心の根なる母

 

葛を見るたび、地下に広がる膨大な根を想う。山の斜面を覆い尽くすほど蔓や葉を繁らせるためには、どれほどの根を地中に張り巡らせねばならないことだろうか。もっともその根からあの美しい葛粉がとれて、その葛粉からあのおいしい葛餅が出来なければ、そこまで根のことに意識が向かなかったかもしれない。

生命力の強さを感じさせる蔓や葉、美しくおいしい葛粉と葛餅、さらにはあの鮮やかな紫の花もまた、逞しい根の賜物である。

葛の花を見ていて、自分もいつか心の中にこのように美しいを咲かせてみたいものだと思った。心の花を咲かせるためには、心の根が必要だ。もし私が心の花を咲かせられるとしたら、母という心の根のお陰に違いない。

 

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病む母に添へば桜も聞くばかり

 

この春、姉と7年ぶりに花見に行った。父と母と姉と4人で海南市の小野田にある宇賀部神社に花見に出かけたのが7年前。その年の秋からの1年余りは母の体調がすぐれず3度の入院があり、翌年の初夏には父が亡くなり、夏には母が骨折し車椅子生活となってといった次第で、それから6年一度も花見に行くことはなかった。昨年の秋母が亡くなって7年ぶりの花見となったわけだが、この間桜は私にとって花便りを聞くだけの花であり、物理的にも精神的にももっとも遠い花であった。

長い人生の中には人との交わりにも時期によって親疎があるが、自然との触れ合いにもまた親疎がある。

 

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数の子

数の子を食ふたび父の逸話かな 

 

 いまnoteという媒体で、『私の 母の 物語』という小説を毎日書き続けている。母が認知症になってから、亡くなるまでを家族の歴史もふくめて書くつもりでいる。ちょうどここ2、3日は父にまつわることを書いているときなので、今回はこの句を掲載することにした。

父と母が分校の教員用住宅に住んでいたころ、当時まだ高価だった数の子をお正月のおせち料理の一品として買った。新年に友人が訪ねてきたので、父は酒の肴に数の子を出すようにいった。すると、母は数の子をあるだけ出してしまって、友人はそれを全部食べてしまい、父は楽しみにしていた数の子をすこししか食べられなかった。

父は正月に数の子を食べるたびにその話をした。いかにも母らしい逸話だ。

※note「喜怒哀”楽”の俳介護+」では短歌・詩・その他俳句を公開中

 

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爽やか

爽やかに母来し方をわすれけり

 

四十年来のペンフレンドであるイラストレーターの永田萠さんと先日10年ぶりにお会いして、こんな話をうかがった。

作家の田辺聖子さんがこうおっしゃったという。人には地金というものがあって、一生の中で地位も名誉も財産も実績もあらゆるものが剥がれ落ち、その地金が出るときがくる。そのときに、その人の真価が問われるのだが、残念ながらそれは生まれつきのもので努力では身につけられないものだと。

認知症が進み、自分の過去も子どもである私のこともわすれてしまった母との暮らしは、まさに母の地金に触れた数年であった。

母の地金は美しかった。哀しみが募ると知りながら、私が母のことを書かずにおれないのは、母の地金の美しさゆえかも知れない。

 

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