葛の花

葛の花われに心の根なる母

 

葛を見るたび、地下に広がる膨大な根を想う。山の斜面を覆い尽くすほど蔓や葉を繁らせるためには、どれほどの根を地中に張り巡らせねばならないことだろうか。もっともその根からあの美しい葛粉がとれて、その葛粉からあのおいしい葛餅が出来なければ、そこまで根のことに意識が向かなかったかもしれない。

生命力の強さを感じさせる蔓や葉、美しくおいしい葛粉と葛餅、さらにはあの鮮やかな紫の花もまた、逞しい根の賜物である。

葛の花を見ていて、自分もいつか心の中にこのように美しいを咲かせてみたいものだと思った。心の花を咲かせるためには、心の根が必要だ。もし私が心の花を咲かせられるとしたら、母という心の根のお陰に違いない。

 

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病む母に添へば桜も聞くばかり

 

この春、姉と7年ぶりに花見に行った。父と母と姉と4人で海南市の小野田にある宇賀部神社に花見に出かけたのが7年前。その年の秋からの1年余りは母の体調がすぐれず3度の入院があり、翌年の初夏には父が亡くなり、夏には母が骨折し車椅子生活となってといった次第で、それから6年一度も花見に行くことはなかった。昨年の秋母が亡くなって7年ぶりの花見となったわけだが、この間桜は私にとって花便りを聞くだけの花であり、物理的にも精神的にももっとも遠い花であった。

長い人生の中には人との交わりにも時期によって親疎があるが、自然との触れ合いにもまた親疎がある。

 

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数の子

数の子を食ふたび父の逸話かな 

 

 いまnoteという媒体で、『私の 母の 物語』という小説を毎日書き続けている。母が認知症になってから、亡くなるまでを家族の歴史もふくめて書くつもりでいる。ちょうどここ2、3日は父にまつわることを書いているときなので、今回はこの句を掲載することにした。

父と母が分校の教員用住宅に住んでいたころ、当時まだ高価だった数の子をお正月のおせち料理の一品として買った。新年に友人が訪ねてきたので、父は酒の肴に数の子を出すようにいった。すると、母は数の子をあるだけ出してしまって、友人はそれを全部食べてしまい、父は楽しみにしていた数の子をすこししか食べられなかった。

父は正月に数の子を食べるたびにその話をした。いかにも母らしい逸話だ。

 

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爽やか

爽やかに母来し方をわすれけり

 

四十年来のペンフレンドであるイラストレーターの永田萠さんと先日10年ぶりにお会いして、こんな話をうかがった。

作家の田辺聖子さんがこうおっしゃったという。人には地金というものがあって、一生の中で地位も名誉も財産も実績もあらゆるものが剥がれ落ち、その地金が出るときがくる。そのときに、その人の真価が問われるのだが、残念ながらそれは生まれつきのもので努力では身につけられないものだと。

認知症が進み、自分の過去も子どもである私のこともわすれてしまった母との暮らしは、まさに母の地金に触れた数年であった。

母の地金は美しかった。哀しみが募ると知りながら、私が母のことを書かずにおれないのは、母の地金の美しさゆえかも知れない。

 

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菫程な人

菫程な小さき人とはわが母のことなり母が笑めば春なり

 

「菫程な小さき人に生まれたし」という夏目漱石の句の中の「菫程な小さき人」とは、世のしがらみを離れ、菫のようにひっそりと生きる人との解釈があるようだ。

この解釈に拠るなら、認知症になって姉や私のことさえはっきりとは認識出来なくなった母は、まさに「菫程な小さき人」であった。病の痛みやさみしさはあったかも知れないが、世のしがらみはもう一切気にする必要はなくなっていたというか、そんな意識ももう持ってはいなかっただろう。

その母の笑みは私にとっては春そのものだった。母が亡くなってはじめての春。母の笑みのごとくに咲いた菫を愛でる。

 

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朧夜

朧夜の母には淡きものばかり

 

亡くなる前の1年から2年、母には、この世界がどう見えていたのだろう。姉や私のことを誰だと思っていたのだろう。テレビを観ても反応しなくなっていたから、いろいろな物が認識できなくなっていたに違いない。

もっともそれも日によってかなり落差があって、たまには姉やわたしのことを認識している日もあっただろうし、いろいろな物が比較的よく認識できていた日もあっただろうが、反対にほとんどの物が認識できていない日もあったのではないかと思う。

そんな日の母にとって、世界はまるで朧のようだったのではないかと想像する。そのとき母にとっては、世界ばかりか自分の存在さえ淡く感じられていたのかもしれない。

 

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蓼の花

子に尻を拭かるる母や蓼の花

 

母が亡くなる前の2,3ヶ月はほぼ毎日のように母の便の処理をしていた。昼近くまでベッドで眠って、夜まで車椅子に座ったまま、週二回のリハビリ以外運動らしい運動もしないから便秘にならないか心配していたが、幸い毎日すこしずつ便が出て便秘で苦しむことがなかったのは良かった。

この頃の母に、どれだけわたしのことが分かっていたのか、また自分のおかれている状況が分かっていたのかは不明だが、毎日子どもに尻を拭かれるのはどんな気持ちだろうとふと思ったことがある。

因みにタデ科には「ママコノシリヌグイ」という草がある。棘だらけの茎や葉から憎い継子の尻をこの草で拭くという想像から命名されたそうだが、季語の蓼の花の傍題にもこの語がある。

 

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ところてん

ところてん母転んでも笑へた頃

 

いまnoteというweb媒体で、『私の 母の 物語』という小説を連載している。10年ほど前に書いたもので、母に認知症の症状が出始めてから、脊椎管狭窄症になって手術をし、退院後家族旅行に行ったときまでのことをベースに書いたものだが、毎日文章をアップしながら、さまざまの病気に苦しんだ母の人生の最晩年の20年を思うと、長生きが果たして幸せだったのだろうかと、そればかりを考えてしまう。

まだ母が元気で、ワックスをかけて間もない床でつるんと転んで「ははは、こけてしもた…」と笑っていた頃と、母が転ぶことの心配ばかりしていた頃、母が車椅子生活になって転ぶ心配のなくなった頃を重ね合わせ、言いようの感慨にふけっている。

 

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おもかげ

おもかげをわするることが二度目の死われ在るかぎり父母を詠む

 

母が生きていたときは、俳句や短歌を詠むことが本当に楽しかった。内容的にはつらいものであっても、それが形になるとつらさと裏腹のよろこびがあった。

だが、いまは、俳句や短歌を詠むことが苦しい。母が亡くなって、もうすぐ半年になろうとしているのに、哀しみが癒えるどころか、死んで5年になろうとする父のことまで思い出してしんみりする始末である。

それでも、たとえ月に一句、一首でも、三ヵ月に一句、一首でも父や母のことを詠みつづけていきたい。いのちとしては存在しなくても、父や母の存在が完全に消えたわけではない。わたしが生きて、父母を詠むかぎり・・・・・・。

 

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黒文字の花

黒文字の花幸せに単位なく

 

幸せとは、一つ二つと数えるものなのだろうか。それとも、一時間二時間とか一日二日とか数えるものなのだろうか。母を見送って哀しみにしずむ日々、しかし、いまこんなに哀しいということは、それだけ母と暮らした日々が幸せだったということだと気づいた。介護の日々がつらかったのなら、いまはむしろ解放感のほうが大きいはずだ。

そうすると、いまのこの哀しみもまた幸せの一部のような気がしてくる。喜びと悲しみ、幸せと不幸せは背中合わせもので、切り離すことが出来ないものなのかもしれない。

単位というものは連続するものを一定の基準で区切ることによって作られるものだが、人の気持ちは果たして区切れるのだろうか。

 

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