野分

野分めく母より逃ぐる二メートル

 

珍しく母が怒った。機嫌の悪い日はあっても、他人に対して激しい口調になることはほとんどない。認知症になってからもそれは変わらなかった。だが、この日は私が感情的になり、母もよほど腹が立ったのだろう。「もう往ね(帰れ)!」と私に言い放った。こんな時は、触らぬ神に祟りなしとばかり母から逃げておくに限るが、この時の母はまだかろうじて立てたので、うっかり車椅子から立ち上がって転んだら大事だ。(実際、洗濯物を干している時に車椅子ごと倒れたことがあった。)何かあったらすぐに助けにいける場所にいて、母のこころの嵐が過ぎ去るのを待った。

若い頃ならこの倍は距離を取れた。いまは正直この距離でも間に合うかどうか……。

 

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子規忌

子規の忌のもう一献は律さんへ

 

もし子規の時代に介護ベッドがあったら……。あるいは車椅子があったら……。もっとも子規がそれを利用できたかどうかは分からないが……。介護用具も介護サービスもない時代の介護は、今とは比べものになるまい。母八重や妹律の献身なしには子規の偉業はなし得なかったことは疑うべくもない。ふと子規の命日に酒を供えて、律さんにも一献差し上げたくなった。

「律さん」とは馴れ馴れしい呼び方だが、子規を介護していた頃の年齢を思えば、「律女」でも「律様」でもなく、親しみを込めて「律さん」と呼びたくなる。また、これは同じく介護をしている者としての共感を込めた呼び方でもある。

 

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星月夜

さみしさが母から香る星月夜

 

身体がさみしさを発している。その夜、ベッドに三日月のような形で眠っている母は鮮烈だった。認知症で何も分からないとか、連れ合いを亡くしたとか、年老いたとか、そんなさみしさではなく、まるで存在していることのさみしさとでも言うようなものが母の身体から溢れていた。人間はみな個であることを保障されねば人間らしく生きられないが、個であることは同時に孤独を引き受けることでもある。一方で、人間の個は他との関係性なしには立ち上がらず、他人の存在なしに自己などというものも存在しない。

たった一人はさみしい。だが、家族といても、恋人といても、友人といても、人間である限りさみしいのだと思う。

 

 

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秋の夜

秋の夜の母の入れ歯の大・捜・索

 

ついに入れ歯は出てこなかった。車椅子のクッションの下、枕カバーの中、ティッシュの箱の中・・・これまでもなくなるたび、意外な場所から出てきた入れ歯だったが、今回はどこを探しても見つからなかった。その後母は骨折して車椅子生活となり、歯医者さんに通って入れ歯を作り直すことも出来なくなった。骨折による入院生活の影響もあっただろうが、入れ歯をなくしてから母の食は細くなり、大好きな甘い物でさえ受け付けない日も出てきた。

幸い往診してくれる歯医者さんが見つかり、入れ歯を作り直してもらえた。入れ歯が入ると母の食欲は戻り、これが九十歳を過ぎた老婆かと驚く日さえある。

 

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虫時雨

目を閉ぢて脈をとりをる虫時雨

 

指先に神経を集中する。母の手首の親指側を押さえて脈をとる。母の脈の乱れる時は、一定の拍動がところどころ飛んだり、強い拍動に弱い拍動が混ざったりする。普段は血圧計で測定しているが、機械が教えてくれるのは脈拍数と不整脈の有無だけなので、脈がどんな傾向かは、自分の指で測らないと分からない。傾向を知ったからといって、専門知識があるわけではないので、何が分かるというわけではない。だが、血圧計の測定値と自分の測定値が一致しない時は、機械よりは自分の感覚を信じたい気持ちが私にはある。

かすかな脈も見逃すまいと目を閉じると、いままで意識していなかった虫の音が急に耳に飛び込んできた。

 

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手にほのと桃の匂ひやおむつ替へ

 

いま母は一人では用を足せない。「おしっこ」と言われると、目の前の作業は中止してトイレに連れていかなければならない。それが炊事の最中であれば、野菜や肉を切っていた手を洗うのもそこそこに母の車椅子をトイレまで押す。間に合う時ばかりではないから、いつも紙おむつを履いてもらっている。おむつを替えようとして、ふっと自分の手の匂いに気づくことがある。その日はちょうど桃を剝いているときだった。

匂いがした時、おむつを替えながらふっとこころが緩んで自然と笑みがこぼれた。そう言えば、桃の割れ目は人間のお尻をイメージさせる。もっともそれは、老人のそれではなく赤ん坊のあのやわらかなお尻だが。

 

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初秋

初秋や母のいのちの坂いくつ

 

九月を過ぎるとほっとする。五年前の九月、母が徐脈で入院した。そのまま危篤状態となり、一晩意識がなかったが、幸いにも翌朝意識が戻り、二週間程で退院した。翌年の一月末また徐脈で入院。体調が落ち着いてきたと思っていた九月、またもや徐脈となって入院した。その翌年は転倒して骨折し、八月末から入院した。結局三年連続で母は九月を病院で過ごしたことになる。そんなわけで私には、一年のうちで九月が、母にとって最もきつい坂と意識されるようになった。

いのちの坂にも上り下り。母はもう何十年も、坂を下り、しばらく平地を歩いて、また坂を下るということを繰り返してきた。できれば最期はゆるやかな坂を下らせてあげたい。

 

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小鳥来る

パンを手に眠れる老母小鳥来る

 

一年の四分の三は母と家にいる。父が死んでから、常に母の傍にいられるのは私だけだ。だが、私にも仕事がある。とは言え、要介護5の母を一人には出来ないから、姉や介護サービスの方々に助けてもらいながら、仕事や買い物などに出かける。平日は15,6時間、日曜・祝日は24時間母と家にいるから、計算するとそのぐらいの割合になる。と言っても、家事と介護以外の大部分は、母の隣で眠る時間と母の傍にいるだけの時間だ。

母は朝食や昼食の最中眠ることがある。眠るといっても5分から10分程度眠っては目覚めて、また食べまた眠って、目覚めてまた食べをくり返す。そんな時はキッチンから見える裏庭を所在なく見つめていたりする。

 

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いわし雲

いわし雲いつ止む母の一人言

 

幻と喋っているのだろうか。そんな日もあるが、これは会話というより、声の大きな一人言のように聞こえる。ベッドで一人横たわっている時に、この一人言が多い。三時間以上喋りっぱなしのこともある。日曜日の午後、リビングで母と向かい合わせでいて、これが始まった時にはさすがに閉口した。目の前の私には全く話しかけず、母が延々と脈絡のないことを喋り続ける。認知症の症状の一つと言ってしまえばそれまでだが、私には母が一人言によって、何かしらの記憶の整理をしているようにも思える。

夢によって、人間は脳の情報整理を行っているという。こんな時の母は起きながらにして夢を見ているのかも知れない。

 

※note「喜怒哀”楽”の俳介護+」では、短歌・詩・その他俳句を公開中

 

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秋灯

秋ともし母の徘徊数十歩

 

心臓が止まるかと思った。まだ父が生きていた頃のことだ。秋の夜、車で家からほんの数十歩ほどのところまで帰ってくると、パトカーが停まっている。何事?と思いつつ通り過ぎようとすると、母がいるではないか。あわてて車を車庫に入れ走って引き返し、「あの家の者です」と数十歩先の灯を指した。道で横たわっていたところを通りがかりの人が通報してくれたのだという。母が徘徊したのは、この一回きり。夜中に出ようとしたことが何度かあったが、幸いにも玄関の鍵を開けられず、未遂に終わった。

この夜、父はかなり酔っていて、母が一人で家を出たことに気づいていなかった。買ったばかりの日本酒の五合瓶が空になっていた。

 

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