抱ふれば冬の匂ひの老母かな

 

ここにいう匂いとは嗅覚で感じる、いわゆる香りとは違う。ある種の風情とでもいえばいいだろうか。ベッドから車椅子に母を移乗するときに抱きかかえる。そのときに、ふと冬に着る毛糸の服がふくんでいるようなほのかな空気の温かさを感じた。

こんなふうに冬の風情に温かさを感じるのは、私が紀州という温暖な地に生まれ育ったためであって、厳寒の地で暮らす方ならまた別の感じ方をするかも知れない。

とは言え、人間の一生を季節に喩えれば、90歳を過ぎた母はまさに冬の季節を生きていた。そしてその母の介護をしていた私は長い長い冬籠もりをしていたと言えるかも知れない。

 

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小春

病む母の笑みこそわれの小春かな

 

高齢者を在宅で介護している家というのは、季節でいえば常に冬のようなものである。どんなに懸命に介護したところで、待っているのは死だ。老いと死を逃れる術はなく、人生の最晩年を生きる者にふたたび春が巡ってくることない。

そうは言うものの、冬には冬の良さがある。概して楽しみなことの少ない冬だからこそ、ささいなことがうれしかったり、共に在ることの喜びを感じたり、今までなんでもなかったことの有難みに気づくということもあった。

そして、私にとって何ものにも代えがたかったのは、母の笑みであった。それは冬のさなかに小春のように、私のこころと身体を温めてくれた。

 

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雪降れり

母と在るいまこの時や雪降れり

 

この句を詠んだとき、もちろんいつか母が旅立つ日がくることを意識はしていた。だから、母と在る時間を慈しみたいと考えていた。とは言え、介護の日常はどこか時間に追われてしまう。

ここ半年ほどの母は睡っている時間が増えて、起きて車椅子に座っていても黙っていることが多かった。互いのことばも通じず、会話らしい会話をすることもほとんどなかった。

それでも母がいてくれるだけでさみしくはなかった。いのちの存在とはすごいものだと改めて思う。

 

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雑炊

母食はぬ雑炊汁を失へる

 

母はだんだんとご飯が食べられなくなってきた。咀嚼はするが飲み込むのが難しいらしい。ずいぶん長く噛んだあと、飲み込めなかった分を舌の上に載せて吐き出してくる。

パンは比較的よく食べるので、ご飯が食べられないときはパンを食べてもらうが、日本人の性なのか、ご飯を食べないと元気が出ないような気がしてしまう。

そこでとろろ掛けご飯にしたり、雑炊にしたりして、なんとか母が食べやすいようにと工夫してみるのだが、結局はその日の調子次第で食べない日は食べない。

用意したものを食べてくれないのにはもう慣れたとは言え、すっかり汁気を失った雑炊を見ると、ちょっとさびしい気持ちがした。

 

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わが家も減塩!

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おでん

父逝きて余るおでんの腹立たし

 

父も私も酒飲みであて食いである。酒があれば料理がすすむし、料理があれば酒がすすむ。そんなわけでその日に作った料理はほとんど残ることはない。それを見越して、おでんなどは5人分ぐらい作る。母が1人分、父と私は2人分というわけだ。それでもうっかりすると、一晩でほとんど食べてしまう。

父が亡くなった冬、おでんを作った。母が1人分、私が2人分で3人分ぐらい作った。だが、私は2人分のおでんを食べられなかった。ちょうど1人分ぐらいのおでんが余った。

それがなんだか無性に腹立たしかった記憶がある。ちょうど1人分余ったおでんに、父がもういないことを意識させられるのが嫌だったのだろう。

 

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母の咳そろそろおむつ替へ時か

 

毎日決まった時刻に起こしたほうがよいのだろうが、気持ち良さそうに眠っている母は起こしづらい。また、こちらも眠っていてくれたほうが家事のほかに自分の時間も持てるから、ついつい起こしそびれて気づいたら昼過ぎということも少なくない。だが、時すでに遅く、パットや紙おむつの吸水量の限界を超えて、肌着やパジャマを尿で濡らしてしまうという失敗をこれまで何度繰り返してきたことだろう。論語に曰く「過ちて改めざる。これを過ちと言う。」

折しも寝室から母の咳が聞こえた。目覚めた! いまがおむつの替え時だ。そう思いつつ、ブログを書き上げるまではとパソコンの前から離れられない過ち多き私である。

 

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さばが好き!

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茶の花

茶の花や灯ともさず父と母

 

もともと父も母もかなり暗くなるまで電灯を点けなかった。父の家に電気が通じたのは戦後だったという。父や母の世代のころの家の中はそんなに明るくなくて、ほの暗さに慣れているということもあるだろう。

だが、母が認知症になり、父もまたその症状を示し始めてからの無点灯は、それとは違う。椅子から立ち上がって灯を点けに行くのが億劫なのか、灯を点けるという行為そのものをわすれているのか、いや夕暮れとなって暗くなったという感覚さえ、父と母にはなかったのかも知れぬ。

外から帰って、暗い部屋に父と母がじっと座っているのを見ると、一瞬ぎくっとした。さまざまなものが暮れかかっていた。

 

 

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降る雪を父と歩めるごと歩む

 

ふとした折に父の気配を感じることがある。亡くなった4年前のお盆は、故郷の寺へ仏様を迎えに行ったときに、まるでそこかしこに父が素粒子となって浮遊しているように感じられた。大晦日、下戸のはずの母が猪口一杯の酒を楽々と飲み干したのを見て、父が乗り移っていると思った。

この句を詠んだのは2年前の冬。和歌山では珍しく雪が積もった。買い物に行こうと、ゆっくりと雪を踏みしめながら歩いていると、ふと父と並んで歩いているような感じがした。

最晩年の父は歩くのも遅くなっていて、一緒に歩くときはこちらが歩を緩めなければならなかった。雪を踏みしめて歩く感じが、そのときの感覚を思い出させたのかも知れない。

 

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冬に入る

姉焼けるパンやはらかく冬に入る

 

姉はパン作りが趣味だ。毎週2回、パンを焼いて持ってきてくれたので、わが家では朝食のパンは長らく買うことがなかった。定番はチーズの入ったパンと金時豆の入ったパンで、ときどきオレンジピールやレモンピールの入ったパン、桜餡やずんだ餡の入ったパンを焼いてきてくれた。

ただ、1年ほど前から姉のリウマチの症状が進んできて、パン生地を捏ねるのが大変になり、パン作りも体調次第となってきている。老母を介護する姉と私も、体調万全とはいかない日が増えてきた。

焼きたてのパンは、もちろんどの季節もおいしいが、私は初冬に食べる、やわらかくほの温かいパンが好きだ。

 

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夢の世を母生きわれは葱作る

 

不思議だ……。なんて明瞭に喋るのだろう。一人で幻と喋っているとき、寝言を言っているときの母の声は、驚くほどしっかりしている。ところが、目覚めて私と喋ると、呂律が回らなかったり、寝ぼけたような話し方になったりすることが多い。母にとっては、私と接する時間が夢で、夢の中の時間が現実であるかのようだ。

永田耕衣に「夢の世に葱を作りて寂しさよ」パロディのつもりも、ましてや「本歌取り」のつもりもなく、ただ葱を植えていて、耕衣のこの句を思い出し、「夢の世」から母を想って詠んだ。耕衣は、母の句をたくさん詠んでいる。そのためか、雲の上の人なのに、どこか身近な人のように思えてしまう。

 

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