寒し

鍵開くる音響きけり寒き家

 

母が亡くなって一年余り。いまだに一人暮らしに慣れない。中学校入学と同時に下宿して親元を離れた私だが、四十歳の頃両親とまた同居することになって以来、家に帰ればいつも父と母がいたし、父が亡くなってからは、私が仕事から帰るまで姉かヘルパーさんが母の面倒をみてくれていたから、帰ってきて自分で家の鍵を開けるということもなければ、帰ってきて部屋を冷やしたり暖めたりすることもなかった。いつ帰っても、鍵は開いていて、夏は冷房、冬は暖房が入っていた。

母が死んで、姉もヘルパーさんも家には来なくなったから、当然ながら自分で鍵を閉めて家を出て、自分で鍵を開けて家に入る。鍵を開けるカチャリという音が響くと、「ああ、独りなんだなあ・・・」と実感する。

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介護終え皹のなきわが手かな

 

ここ四、五年あまり、冬になると毎年のように皹が出来ていた。私の場合、手の指の付け根の関節や中の関節や親指の指先のところがよく裂けた。

皹は皮膚のバリア機能が低下することで起こるという。母の下の世話などで頻繁に手洗いやアルコール消毒をしていたから、手の皮脂が洗い流されてバリア機能が低下したところへ、冬場の空気の乾燥や気温の低下が重なって、皹が出来やすくなっていたのだろう。

昨年の9月30日に母が亡くなり、むかえた冬は、ほとんど皹が出来なかった。私の皹は、介護をしていた証だったのだ。そう思って、皹のない手を見つめると、なんだかさみしかった。

 

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冬銀河

冬銀河われの使命のまだ見えず

 

私は、生まれてきた以上は人にはなんらかの使命があるのではないかと思っている。それを考えることは大変なことだが、母を介護している間はそれをわすれていられた。いま自分のすべきことは母に添うこと。そう自分を納得させられたからだ。

しかし、母が亡くなると、一時保留にしていたこの難題をまた考えねばならなくなった。自分はいったい何のために生きているのか、この先いったい何をすればいいのか。若い頃よりも還暦を過ぎたいまのほうがより見えなくなったような気がする。

もう先延ばしする時間もそんなにはないのだが、とりあえずいまは母が亡くなるまでの家族の物語を小説という形で記すこと、それだけを遂げておきたいと思い、毎日書き続けている。

※ 「喜怒哀楽の俳介護+」で 連載小説『私の 母の 物語』  四十六 (284)|@haikaigo を掲載中

 

 

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冴ゆ

冴ゆる夜や音立てたるは吾のみにて

 

父が亡くなってから母が亡くなるまでの四年余り、一日も欠かさず母の介護ベッドの隣に布団を敷いて眠った。ときに母は、私を父だと思って話しかけてきたり、幻に向かって話しかけたり、誰に話しかけるでもなく一人で話し続けたり、なかなか眠らせてくれないこともあったが、独り言だろうと寝言だろうと寝息だろうと、音を立てるということは、母が生きている証に違いなかった。

自分以外の誰かが音を立てているときには、自分の立てる音はそれほど意識しない。だが一人きりになって、自分以外に音を立てるものがなくなると、自分は毎日こんなにも音を立てているのだと気づかされる。

冴ゆる夜、静寂のなかで、己の立てる音を聞く。さみしさが寒さのように身にしみる。

 

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寒さ

出づるより母思はるる寒さかな 

 

不整脈のある母の心臓の負担をすこしでも減らそうと、わが家は春や秋の一、二ヵ月を除いては、ほぼ一年中冷暖房をつかって室温を一定に保っていた。

それでも外気温の変化は、少なからず心臓に影響を与えると訪問看護師さんからうかがっていたので、急に暑くなったり寒くなったりした日は不整脈が出ないかどうか心配だった。

この日仕事に行くために、暖房のきいた家の中から外へ出たら、思いのほか外が寒かった。ふと母のことが心配になって、後ろ髪引かれる思いで仕事に向かった。

母亡きいま、そんな心配はなくなったが、心配せずに済むことがなんともさみしい。

 

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母と子で名告り合ひたる朝の霜

 

母がいつも目覚めたときに、わたしを知らない人だと思って驚いたり、怖がったりしてはいけないと思って、「幸彦です」と名告ることにしていた。それで分かるときもあれば、名前を聞いても自分の息子だと分からずによその人だと思っているようなときもあって、ある日「幸彦です」と名告ると、母もまた「和子です」と名告った。その母の律儀な名告りぶりが妙に面白かった。

目覚めた母の記憶は、霜に覆われたように真っ白で、それが徐々に解けていって、ああ、そうだ、これは私の息子だったというように思い出すのかもしれないとそのとき思った。もっともその霜は冬に限ったことではなく、季節を問わず、母の記憶を覆ってはいるが……。

 

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数の子

数の子を食ふたび父の逸話かな 

 

 いまnoteという媒体で、『私の 母の 物語』という小説を毎日書き続けている。母が認知症になってから、亡くなるまでを家族の歴史もふくめて書くつもりでいる。ちょうどここ2、3日は父にまつわることを書いているときなので、今回はこの句を掲載することにした。

父と母が分校の教員用住宅に住んでいたころ、当時まだ高価だった数の子をお正月のおせち料理の一品として買った。新年に友人が訪ねてきたので、父は酒の肴に数の子を出すようにいった。すると、母は数の子をあるだけ出してしまって、友人はそれを全部食べてしまい、父は楽しみにしていた数の子をすこししか食べられなかった。

父は正月に数の子を食べるたびにその話をした。いかにも母らしい逸話だ。

※note「喜怒哀”楽”の俳介護+」では短歌・詩・その他俳句を公開中

 

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日脚伸ぶ

千金の老母の数歩日脚伸ぶ

 

亡くなる前の一年ほどは、訪問リハビリに来てもらっても、車椅子やベッドから立ち上がる訓練をするのがやっとで、母が歩くことはほとんどなかった。母自身、歩く気力を無くしていたのか、理学療法士さんがちょっと歩いてみましょうと言っても、「せん!」などとにべなく断ることもたびたび。立ち上がることさえしたがらず、ただ腕や足のマッサージをしてもらうだけでリハビリを終えるということも少なくなかった。

ただ、ごくごく稀に母が歩こうという意志を示して、理学療法士さんに支えてもらいながら、手摺りをもって廊下を数歩だけ歩く日があった。わずか数歩のことだが、姉や私にとっては、母が歩いた、そのことがもうこの上なく貴重なことに思えたものだ。

 

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抱ふれば冬の匂ひの老母かな

 

ここにいう匂いとは嗅覚で感じる、いわゆる香りとは違う。ある種の風情とでもいえばいいだろうか。ベッドから車椅子に母を移乗するときに抱きかかえる。そのときに、ふと冬に着る毛糸の服がふくんでいるようなほのかな空気の温かさを感じた。

こんなふうに冬の風情に温かさを感じるのは、私が紀州という温暖な地に生まれ育ったためであって、厳寒の地で暮らす方ならまた別の感じ方をするかも知れない。

とは言え、人間の一生を季節に喩えれば、90歳を過ぎた母はまさに冬の季節を生きていた。そしてその母の介護をしていた私は長い長い冬籠もりをしていたと言えるかも知れない。

 

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小春

病む母の笑みこそわれの小春かな

 

高齢者を在宅で介護している家というのは、季節でいえば常に冬のようなものである。どんなに懸命に介護したところで、待っているのは死だ。老いと死を逃れる術はなく、人生の最晩年を生きる者にふたたび春が巡ってくることない。

そうは言うものの、冬には冬の良さがある。概して楽しみなことの少ない冬だからこそ、ささいなことがうれしかったり、共に在ることの喜びを感じたり、今までなんでもなかったことの有難みに気づくということもあった。

そして、私にとって何ものにも代えがたかったのは、母の笑みであった。それは冬のさなかに小春のように、私のこころと身体を温めてくれた。

 

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