父にもありけむ

母が吾を摩ってくるることもあり父にも然るときやありけむ

 

母が私をさすってくれる。母のベッドを低床ベッドに替えたので、ベッドの隣に敷いた自分の布団と母のベッドとはほぼ同じ高さになった。父がまだ生きていた頃はまだ低床ベッドではなく、夜中に母が痛がると父は自分の布団に母に来るように言って一緒に眠っていた。こうされるとトイレに行くときに母を起こすのが大変だから止めてくれと父にたびたび言ったものだが、今なら分かる。横になったままで母を摩れるから楽なのだ。

そして、父もこうして母に摩ってもらったこともあったのだろうと思った。つらいことの多かっただろう父の介護の日々にも、こんな時もあったかも知れないと思うと、少しだけ心が軽くなった。

 

 

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人の密度

わが母は朧なれどもぎゆつと人詰まりて人の密度は高し

 

ああ、これが母なのだ。認知症が進むにつれて、むしろ母という人の本質が見えてきたように感じる。ものわすれが始まり、財布や預金通帳を紛失したときでも、「わたしや財布どこぞへ失うた」とは言ったが、一度も誰かに盗られたとは言わなかった。機嫌の悪いことはあっても、相手を非難するような物言いはしない。まして叩いたり、手を払いのけたりといった乱暴な行為は一度もない。介護サービスの方々や子どもにもよく「ありがとう」と言う。

人間らしさ、それも人間の良質なところがいっぱい詰まっている、そんな感じがする。少なくとも私よりも母のほうが人としての密度は高い。

※note「喜怒哀”楽”の俳介護+」では短歌・詩・その他俳句を公開中

 

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一万回

一万回母を傷つけしその口で吐いてしまへり一万一回目のことば

 

本当は一万回どころではない。これまでどれだけ母を傷つけることばを吐いてきただろう。なかには暴言もある。誰かがそれを聞いて通報したら、私は虐待の罪に問われていたかも知れない。絶対にしないと誓って守ってこられたのは、母に手を上げないことだけだ。もう限界と思ったら、大声で泣くことにしている。泣くにせよ怒るにせよ、母に強く当たった後は、心にちくりと棘が刺さる。

それでも、すべての怒りを抑えたくはない。少なくとも「認知症だから仕方ない」という納得の仕方をしたくない。それは何か違う気がするのだ。母を一個の人間として見るなら怒る

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べきことをしたら怒りたい。たとえ母の心にも自分の心にも棘が刺さろうとも……。

 

春の蚊

手もことば伝へたれどもわれの手のことば足らずを春の蚊が刺す

 

介護は、手がいのちだと思う。介護の大半は手を使う行為だ。さらに言えば、介護は手で被介護者の身体に触れる行為である。身体を支える、おむつを替える、清拭をするといった行為は相手の身体に触れることなしには出来ない。だから、口で伝えることばに加えて、手で伝えることばがあると思う。いくらやさしいことばをかけられても、手にやさしさがなければ介護される人は安心して身を任せられまい。

私の母のように、言葉の理解が難しくなってくると、なおさら言葉だけでは気持ちが伝えられない。だから、「手のことば」が重要になってくるが、めったに人を刺すことのない早春の蚊がちくりと私の手を刺した。

 

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