腐草蛍となる

わが科や腐草蛍となりぬとも

 

私はいつか認知症にならなければならない。そして私からつらいことばをかけられた父や母の気持ちを知らなければならない。もっとも、そうなった時に、私が父や母にした仕打ちを覚えているかどうかは分からないから、ああ父や母に申し訳ないことをしたと心底思えるかどうかは分からない。あるいは父や母に言ったことなどすっかり忘れてしまっていて、ただただ自分に投げかけられるつらいことばに憤慨するだけかも知れない。

「腐草蛍となる」は腐った草が化して蛍になるという古代中国の伝説に由来する季語。仮にそのことを忘れてしまっても、科が消えたわけではない。罪ほろぼしにはならないが、このブログには正直に記しておきたい。

 

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待宵草

父偲ぶ待宵草の咲くやうに

 

宵待草のことを月見草と混同している人が多いという。実は私もそうで、歳時記の説明を読んで、ネットで調べるまで待宵草のことを月見草だと思っていた。今でも「月見草」と聞けばこちらの方を思いうかべる。プロ野球の野村克也の「長嶋は向日葵、私は月見草」の名言も、太宰治の「富士には月見草がよく似合う」の一節も、待宵草のイメージとしか結びつかない。

父が亡くなっても、昼間はばたばたと時間に追われていて、父のことを思い出すことは少ない。だが、日が暮れて一人でいるときなどに、ふっと父のことを思い出すことがある。それはひっそりと記憶という花が開くような感じである。

 

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父逝きてもの言ひたげな蛇出でし

 

生まれ育った山間と違い、いま住んでいる場所ではほとんど蛇を見かけない。平地や丘陵で石垣などが少ないうえ、最近はコンクリートブロックなどを用いるから、蛇の住める場所も少ないのだろう。

ところが、父が亡くなったその年は珍しく蛇を何匹か見かけた。裏庭を1メートル以上もあるアオダイショウが這っていたこともあった。この辺りで1メートルを超える蛇を見たことがなかったのに、それが裏庭に来ていたのだから驚いた。

一番驚いたのは、種類は分からないが小さな蛇がガレージへ下りる扉のところから廊下まで上がってきていたことだ。何か知らせに来てくれたのだろうか。

※note「喜怒哀”楽”の俳介護+」では短歌・詩・その他俳句を公開中

 

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ゆく蛍天に昇るを見届けず

 

ドラマのようにはいかないものだ。NHKの連続ドラマ『ごちそうさん』のヒロインの義理の父親が夕食を食べ終えて、「ああ、おいしかったなあ……。明日はどんなおいしいもん食べられるんやろ」と言った翌朝、息を引き取っていた。そんな別れを夢見ていた。さすがにそれはないとは思っていたが、出来るなら父から最期に感謝のことばや励ましのことばを聴きたい、せめて亡くなる直前の父に感謝のことばをかけたいと思っていたが、どれも叶わなかった。未明に気づいたときには、肺炎による高熱のまま息絶えていた。おそらく喉には痰がつまっていただろう。

義兄は、父は自分の意志で逝ったのだと言う。姉や私の涙を見たくなかっただろうか。

 

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時鳥

時鳥絶えたる父の身は熱く

 

息絶えて間もなかったのだろう。未明に父の体温を測り、「ああまだ熱が38度7分もある」と溜息をつき、ふと気づくと呼吸をしていなかった。前日は母の誕生日。それを待っていたかのように逝った。父の死体は早朝葬儀屋さんが来た時にもまだ温かかった。

姉にも私にも子どもがいない。だから、父のことを続く世代に伝えられない。だが、父のことを(そして母のことを)何かの形で残しておきたい。私がnoteやブログを始めた大きな動機の一つだ。

死ぬことは「冷たくなる」と表現される。私も観念的に死んだら冷たくなるものだと思っていた。温かな死体もあることを、父の死体に触れて初めて知った。

 

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筍の季ごとに母を見舞ふ叔母

 

母は四人姉妹の次女だ。一つ上の姉も、二つか三つ下の妹ももういないので、残っているのは十三歳下の妹だけである。父には兄が一人、姉が八人いたが、末っ子の父が最後に亡くなって、姉と私にとって「おじ・おば」と呼べる人は、この叔母夫婦だけになった。

母が認知症になってから、ずっと叔母夫婦はわが家のことを気に掛けてくれて、年に二、三度訪ねてきてくれる。そのたび畑で穫れた野菜や、お手製の総菜をたくさん携えて……。

中でも私が楽しみにしているのは、叔母の作った筍の煮物で、この頃歯ごたえのある物が食べられなくなってきた母も、叔母の作った筍の煮物は普段よりよく食べる。

 

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夕暮に庭掃く父や蟇の声

 

父の仕事を私が取り上げてしまった。父の負担を減らそうという考えからだったが、結果的には失敗だったと思う。料理が好きだった父が、料理をするのがうるさくなってきたと言い始めたのは、亡くなる3年程前からだったと記憶している。今まで家事全般なにもかも父に頼りすぎてきた。これからは父に代わって私が出来る限りの家事を引き受けよう……。そうして、料理も洗濯も掃除も家庭菜園も庭木の手入れもと奮闘していたある日、父が所在なげに庭を掃いていた。

父に代わっては間違いだった。代わるのではなく、支えるべきだったのだ。だが、あの当時、それが私に出来ただろうか? いまも自問自答を繰り返している。

 

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葉桜

父退院帰路は葉桜ばかりなり

 

これを退院というのだろうか。やせ衰え、立つこともできず、ことばもほとんど発せられない。圧迫骨折の入院でまさかこんな状態になるとは思いもしなかった。入院して10日ほどは、記憶に混乱はあったもののしっかりとことばも喋り、リハビリも順調に見えた。ところが、新型コロナウィルスの流行によって面会できなくなった2週間ほどのうちに、父はすっかり変わってしまっていた。もう圧迫骨折の治療などどうでもいい。ただただ早く父を家に連れて帰りたかった。

4月末、ともかくも退院できることになって父を家に連れて帰った。帰路に目にする葉桜を見ながら、桜咲く頃にリハビリをしていた元気な父の姿を思わずにはいられなかった。

 

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母に摘む今年の苺匂ひたる

 

苺は秋に苗を植えて、翌年の春に収穫する。一度苗を買うと、そこから蔓(ランナー)が伸びて、子株をつくるので、その株をまた植え付けて翌年に収穫することが出来る。わが家の苗は、最初に植えたものからもう5代目か6代目くらいになる。菜園が狭いので、十個あまりのプランターに植え付ける。

ここ2,3年は、植え付けのたびに「来年、この苺を母は食べられるだろうか」と思う。こんなふうに思うのは、植え付けから収穫まで年を跨ぐからか、それとも「苺」という漢字の中に「母」がいるからか、いずれにしても、他の作物ではそうは思わないのに、苺のときだけそう思う。

今年も「今年の苺」がもうすぐ実る。

 

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虹出でて老母の便も出でにけり

 

母の便が出ると、機嫌が直る。母ではなく私の。介護生活の喜・怒・哀・楽は、四分の一ずつというわけにはいかない。私の場合は喜喜・怒怒怒怒・哀哀哀・楽ぐらいだろうか。季節も時間も分からない母にはTPOはないから、こちらの事情などおかまいなしにいろいろな要求が飛んでくる。その大半が「家に帰りたい」とか「(意味不明の)してよお」とか、手が離せない時の「ちょっと来てよお」とかなので、繰り返されるとこちらも堪忍袋の緒が切れる。そんな時でも「うんこしたい」と母が言い、実際にうんこが出ると、私の機嫌は一変に直ってしまう。

その日は空に虹も出た。まさに好日。迷うことなく詠嘆の「けり」だ。

 

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