葱食ひぬ亡き母に似て喉弱く

 

私と母は血液型が同じO型で、体質もよく似ている。特に風邪を引くときは毎回鼻からではなく、喉の痛みから兆候が出始めるところは本当によく似ていた。

私は子どもの頃も大人になってからも比較的よく風邪を引いたが、父が亡くなってからの四年余りまったく風邪を引かなかった。新型コロナの流行でいつもマスクをしていたことや、手洗い・うがいを入念にするようになったからだと思うが、母に風邪を移してはいけないと、気が張っていたことも関係しているかもしれない。

母が亡くなって一年と四か月、この冬はちょっと喉の調子があやしい。予防のためネギを食べようとスーパーで葱を買った帰り、そういえば母も喉が弱かったことを思い出した。

 

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草紅葉

介護負ふ子もありと聞く草紅葉

 

介護という行為には「臨む」や「挑む」という述語より、「負う」や「担う」という述語がふさわしい。なんのかんの言ったって、やはり重いものなのだ。

その重いものを、大人になる前の子どもたちや大人になって間もない若者たちが「負って」いると思うといたたまれないものがある。それなのに私は、まだ傍観者の立場から抜け出せていない。「と聞く」という措辞は、それを如実に表わしている。

紅葉は植物が冬に備えて葉を落とすための準備をしている印だそうだが、大樹ばかりでなく、幼木にも草にも紅葉するものがある。人間も同じで、大人ばかりがきびしい人生に耐えているわけではない。子どもたちもまた人生の冬に耐えるために、人知れず紅葉している。

 

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汗だくの介助も母の尿ちよろり

 

「おしっこがしたい」と言われてトイレに連れていくのだが、いざトイレに行くと尿が出ないということが母にはよくあった。そこでベッドに戻ってしばらくすると、また「おしっこがしたい」と言う。それでまたトイレに連れていくのだが、足が萎えてからはその度ベッドから車椅子に移乗して、またトイレで車椅子から便器に移さないといけないから、夏などはそれだけで汗だくになってしまう。

そうやってトイレに連れていって、「ちょろり」っと音がしてそれで終わりだと、「こっちの流した汗の量と変わらんやないか」と思ったものだ。

しかし、いま思うと介護というのは、その「ちょろり」のために汗を流す行為なのかもしれない。

 

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かなしくて

かなしくてかなしくつてかなしいとかなしいときの母はひぐらし

 

折に触れて母は「かなしい」と言った。祖父や祖母はどこにいるのかと尋ねてもう亡くなったと伝えたとき。父の死を伝えたとき。手や足が痛むとき。

そんなこと言われてもなあ・・・、亡くなったものはどうしようもないやないか・・・。痛み止め飲んだら、もう摩るぐらいしかできんやないか・・・。

そう思ってたけど、お母さん、いまなら分かります。かなしくてかなしくつてかなしい。亡くなった人が生き返らないのも、心の痛みにつける薬がないのも、分かりきったことだけど、身悶えするくらいにかなしい。ぼくもお母さんと同じように今日は一日かなしいと言って過ごします。どうかあの世で聞いていてください。

 

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