打水

水打たむ母在らざらむ日のわれも

 

母が生きていたときにこの句を詠んだ。往診の医師を迎えるとき、母に癇癪を起こしてしまった自分の気持ちを鎮めるとき、私は庭に打水をした。

いつか母は死んでしまうだろうが、それでも夏になったら打水をしよう。母のことを思い出しながら・・・・・・。そんな気持ちでこの句を詠んだ。

しかし、母を亡くして迎えたはじめての夏、私は一度も打水をしなかった。正直、この句のことはわすれていた。もっとも仮に覚えていて打水をしたとしても、さみしさを募らすだけだっただろうから、わすれていたことは幸いかもしれない。

いつか母のことを思い出しながらも、おだやかな気持ちで打水のできる、そんな日がくることを願っている。

 

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打水

打水をして往診の刻まだし

 

往診を待つ間というのはどこか落ち着かない。足を骨折して車椅子生活になってから、かかりつけ医が月一回往診してくださることになった。歩けなくなった母には申し訳ないが、これは正直かなり助かる。通院だと待ち時間と診察で3~4時間はみておかないといけない。往診だと通常は30分ほどで終わる。とは言え、お医者さんが家に来てくださるというのは、介護サービスの方々とは違った緊張感がある。訪問サービスは「訪問」が仕事だが、往診は特別なことをしてもらっているという感じがする。月一回というのが、さらに特別感を高める。

夏ならば、せめて打水でも……と庭に水を撒いて、今か今かと先生を待つことになる。

※note「喜怒哀”楽”の俳介護+」では短歌・詩・その他俳句を公開中

 

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