小鳥来る

パンを手に眠れる老母小鳥来る

 

一年の四分の三は母と家にいる。父が死んでから、常に母の傍にいられるのは私だけだ。だが、私にも仕事がある。とは言え、要介護5の母を一人には出来ないから、姉や介護サービスの方々に助けてもらいながら、仕事や買い物などに出かける。平日は15,6時間、日曜・祝日は24時間母と家にいるから、計算するとそのぐらいの割合になる。と言っても、家事と介護以外の大部分は、母の隣で眠る時間と母の傍にいるだけの時間だ。

母は朝食や昼食の最中眠ることがある。眠るといっても5分から10分程度眠っては目覚めて、また食べまた眠って、目覚めてまた食べをくり返す。そんな時はキッチンから見える裏庭を所在なく見つめていたりする。

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炎昼

炎昼の床を濡らして母がゐた

 

なにが起きた? 廊下に立つ母の足元が濡れている。失禁したのかと思って、指につけて嗅いでみたが臭いはしない。では、この水は母が持ってきたものか? 母は何をしようしたのだろう? 呆然と立っている母の横に立って、私もしばらく呆然とした。

親の物忘れが増えてきて怪訝に思っても、歳も歳だから……などとそれをことさら深刻に考えたくない時がある。一方で、これはどう考えても認知症だと気づき、またそう悟らねばならない日が来る。ところが、その時には実はもうかなり進んでいる。もちろんそこからでも対応する術はさまざまあろうが、概して家族の認知症への対応は、後追いになることが多いのではなかろうか。

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秋灯

秋ともし母の徘徊数十歩

 

心臓が止まるかと思った。まだ父が生きていた頃のことだ。秋の夜、車で家からほんの数十歩ほどのところまで帰ってくると、パトカーが停まっている。何事?と思いつつ通り過ぎようとすると、母がいるではないか。あわてて車を車庫に入れ走って引き返し、「あの家の者です」と数十歩先の灯を指した。道で横たわっていたところを通りがかりの人が通報してくれたのだという。母が徘徊したのは、この一回きり。夜中に出ようとしたことが何度かあったが、幸いにも玄関の鍵を開けられず、未遂に終わった。

この夜、父はかなり酔っていて、母が一人で家を出たことに気づいていなかった。買ったばかりの日本酒の五合瓶が空になっていた。

 

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バナナ

母病みてある日抽斗よりバナナ

 

いま思えば、あれが前触れだった。ある日、食器棚の引出しから食べかけのバナナが出てきた。「こんなとこへバナナ入れるなよ!」と言いはしたものの、元来天然なところのある人だったから、さして気にも留めなかった。むしろ、これが母だと思っていた。

あれから二十数年、母はやわらかに病み続け、おそらく今は認知症の末期にさしかかろうとしている。母の介護に献身した父が亡くなって三年、私の生活の中心は介護となった。

介護生活の喜怒哀楽の「楽」が俳句だ。今では介護の合間の俳句が、しばしば俳句の合間の介護となる始末だ。そんなゆるい私の介護を「俳介護」と名付けて、俳句と文章で綴る。介護同様ゆるいので、更新は折々。

 

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