ピーマン

ピーマンのやさしさ種をくつろがす

 

一昔前、ピーマンという語は「中身が空っぽ」という比喩で使われた。「頭がピーマン」「話がピーマン」といった具合だ。

しかし、このピーマンの空洞こそ「大いなる空っぽ」である。そして、ふと母はピーマンのような人だと思った。「幸彦、太陽っていうんは一個しかないんか?」などと子どものようなことを尋ねる人で、世の中の常識に対して驚くほど無知なところがあり、その意味で空っぽなところがある人だった。だが、そのお陰か私は母から強い束縛を受けたり、過度な期待をかけられたりすることがなく、自由な生き方をさせてもらえた。

まさに母はピーマン、私はその広い懐の中で育てられた種であったと思う。

 

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病む母に添ひてこころは旅の秋

 

父が亡くなってから、姉が来てくれない日曜・祝日は買い物など短い時間の外出以外はどこにも出かけられず、一日母に添う生活だった。これが約四年半続いた。

残暑もおさまり、心地よい秋風が吹きはじめると、風が旅に誘っているようで、「母が死んだらどこか旅にでも出ようか。どこに行こうか」など考えたこともあった。

実際に母が亡くなると、そんな旅心はどこへやら、いまもまだ遠出をする気持ちにはならないが、それでもちょこちょこと日帰り旅行ぐらいには出かけられるようになってきた。

たぶんいずれは遠いところへも旅するようになるのだろう。そして、そうなった時には、在りし日の母との日々を思い出すことが、私にとっての旅となるのかもしれない。

 

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露の夜や亡き人ばかり母呼びて

 

母が眠ってくれているときが自分の時間だった。一人では起き上がることさえ出来ない。楽しみと言えば、甘いものを食べることぐらいしかない。そんな母にせめてさみしい思いをさせまいと出来るだけ傍にいようと考えていたが、結局は自分の時間が欲しくて、眠っている母が目を覚ました時など、もう少し寝ていてくれたらと思ったものだ。

目を覚まして傍に誰もいない母が、自分に近しい人を片っ端から呼ぶことがある。亡き祖父母、亡き夫、亡き姉、亡き妹。生きている私が呼ばれることはほとんどない。

母もさみしかっただろうが、私もさみしかった。だが、いまとなっては私にさみしい思いをさせるのも、そのさみしさを癒やしてくれたのも母で、逆に私は母のさみしさを癒やすことは何一つ出来なかった。

 

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稲の花

平凡に生きられぬ世や稲の花

 

戦後八十年。日本の国内では戦争はなかった。第二次世界大戦後も、国内での紛争や外国による侵略、独裁的な政権による弾圧などで苦しんでいる国の人々を思うと、本当にそれだけでも幸せなことだ。

そんな世界から見れば平穏な日本という国にも、地震や洪水などの大災害や、航空機や鉄道や自動車などの事故や、凶悪な犯罪、卑劣な詐欺などに苦しめられたり、命を奪われたりする人々がいる。

そうした人々に比べれば、認知症になってしまったとはいえ、父や母の生涯は恵まれたものであったには違いないが、それにしても、こんな平和ボケと云われるような国でさえ、平凡に生き、平凡に死んでいくことのなんとむずかしいことかと思わずにはいられない。

 

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葛の花

葛の花われに心の根なる母

 

葛を見るたび、地下に広がる膨大な根を想う。山の斜面を覆い尽くすほど蔓や葉を繁らせるためには、どれほどの根を地中に張り巡らせねばならないことだろうか。もっともその根からあの美しい葛粉がとれて、その葛粉からあのおいしい葛餅が出来なければ、そこまで根のことに意識が向かなかったかもしれない。

生命力の強さを感じさせる蔓や葉、美しくおいしい葛粉と葛餅、さらにはあの鮮やかな紫の花もまた、逞しい根の賜物である。

葛の花を見ていて、自分もいつか心の中にこのように美しいを咲かせてみたいものだと思った。心の花を咲かせるためには、心の根が必要だ。もし私が心の花を咲かせられるとしたら、母という心の根のお陰に違いない。

 

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爽やか

爽やかに母来し方をわすれけり

 

四十年来のペンフレンドであるイラストレーターの永田萠さんと先日10年ぶりにお会いして、こんな話をうかがった。

作家の田辺聖子さんがこうおっしゃったという。人には地金というものがあって、一生の中で地位も名誉も財産も実績もあらゆるものが剥がれ落ち、その地金が出るときがくる。そのときに、その人の真価が問われるのだが、残念ながらそれは生まれつきのもので努力では身につけられないものだと。

認知症が進み、自分の過去も子どもである私のこともわすれてしまった母との暮らしは、まさに母の地金に触れた数年であった。

母の地金は美しかった。哀しみが募ると知りながら、私が母のことを書かずにおれないのは、母の地金の美しさゆえかも知れない。

 

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蓼の花

子に尻を拭かるる母や蓼の花

 

母が亡くなる前の2,3ヶ月はほぼ毎日のように母の便の処理をしていた。昼近くまでベッドで眠って、夜まで車椅子に座ったまま、週二回のリハビリ以外運動らしい運動もしないから便秘にならないか心配していたが、幸い毎日すこしずつ便が出て便秘で苦しむことがなかったのは良かった。

この頃の母に、どれだけわたしのことが分かっていたのか、また自分のおかれている状況が分かっていたのかは不明だが、毎日子どもに尻を拭かれるのはどんな気持ちだろうとふと思ったことがある。

因みにタデ科には「ママコノシリヌグイ」という草がある。棘だらけの茎や葉から憎い継子の尻をこの草で拭くという想像から命名されたそうだが、季語の蓼の花の傍題にもこの語がある。

※note「喜怒哀”楽”の俳介護+」では短歌・詩・その他俳句を公開中

 

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朝顔

朝顔の萎める咲けるまた一日

 

母の介護がいつまで続くのか、明日にも終わるかもしれないと思うと切なかったし、あと10年続くかもしれないと思うと気が遠くなった。母との暮らしも、訪問入浴が来る前に母を起こして、お襁褓を替えて、着替えをして、食事をしてというときはとても慌ただしい一方で、昼食の途中で眠ってしまったときには時間を持て余してしょうがないというような、両極端な生活だった。

母の未来に待っているのは死だけで、なんの希望もなかったけれど、それでも今日もまた一日が無事に終わった。また今日一日が無事に終わってくれたらと願いながら生活する日々は、やはり幸せな日々であったと思う。

いま哀しいと思えるのが、なによりその証であろう。

 

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一葉落つ

一葉落つ仏のやうに母笑めば

 

微笑んだ母の顔がとてもやさしいときがあって、そんなとき私は、なぜか母の死が近いような気がして心配したものだった。

実際、それは杞憂に過ぎず、1年に何度か仏様のような微笑みを浮かべながらも、母は何年も生きてくれた。

認知症になってからの二十年近い暮らしのなかで、死にたいと口にしたこともあった母だったが、亡くなる2,3年前にはもう「~したい」というような意志や欲をことばにすることはなくなって、生かされるままに淡々と生きていたように思う。その意味では、母はもう仏になりかかっていたのかも知れない。

そして終に母はほんとうの仏様になるべくこの世を旅立った。お母さん、私を見守ってください。

※note「喜怒哀”楽”の俳介護+」では短歌・詩・その他俳句を公開中

 

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新米

食事介助して新米のほの温し

 

箸での食事が無理となり、スプーンでの食事も無理となった。箸は持てない。スプーンは持てるのだが、水平を保ったまま口に持っていけないので、途中で乗せたものが落ちてしまうのだ。フォークに突き刺したものはなんとか自分で食べられるが、ご飯はそういうわけにはいかない。

食事の際、母と私のご飯を同時によそうと、母に食べさせている間に私のご飯は冷めてしまう。それでだんだんと自分が先に食べてから、母に食べてもらうことが多くなった。

最近は、母が私と同じ物を食べられなくなってきた。食事のタイミングはずれるとしても、何か一品でも私と同じ物を食べてくれるとうれしい。家族だから。

※note「喜怒哀”楽”の俳介護+」では短歌・詩・その他俳句を公開中

 

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