母に摘む今年の苺匂ひたる

 

苺は秋に苗を植えて、翌年の春に収穫する。一度苗を買うと、そこから蔓(ランナー)が伸びて、子株をつくるので、その株をまた植え付けて翌年に収穫することが出来る。わが家の苗は、最初に植えたものからもう5代目か6代目くらいになる。菜園が狭いので、十個あまりのプランターに植え付ける。

ここ2,3年は、植え付けのたびに「来年、この苺を母は食べられるだろうか」と思う。こんなふうに思うのは、植え付けから収穫まで年を跨ぐからか、それとも「苺」という漢字の中に「母」がいるからか、いずれにしても、他の作物ではそうは思わないのに、苺のときだけそう思う。

今年も「今年の苺」がもうすぐ実る。

 

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虹出でて老母の便も出でにけり

 

母の便が出ると、機嫌が直る。母ではなく私の。介護生活の喜・怒・哀・楽は、四分の一ずつというわけにはいかない。私の場合は喜喜・怒怒怒怒・哀哀哀・楽ぐらいだろうか。季節も時間も分からない母にはTPOはないから、こちらの事情などおかまいなしにいろいろな要求が飛んでくる。その大半が「家に帰りたい」とか「(意味不明の)してよお」とか、手が離せない時の「ちょっと来てよお」とかなので、繰り返されるとこちらも堪忍袋の緒が切れる。そんな時でも「うんこしたい」と母が言い、実際にうんこが出ると、私の機嫌は一変に直ってしまう。

その日は空に虹も出た。まさに好日。迷うことなく詠嘆の「けり」だ。

 

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合歓の花

老母まだおとぎの国に合歓の花

 

母が寝言をつぶやいている。その顔が笑っている。きっと楽しい夢を見ているのだろう。いまの母にとって、こうして楽しい夢を見ている時が一番幸せなのかも知れない。

認知症が進み始めた頃の母の日記が残っている。二か月にも満たない短い期間だが、それを読むと目が潤んでくる。自分の記憶が蝕まれていくことの混乱と恐怖はいかばかりだっただろう。亡くなる一、二年前の父もそうだったに違いない。何かを言いかけて「出てこん……」と深いため息をついた父の顔がわすれられない。

それでも認知症という病気を私は憎めない。何度も泣かされたが、大切なことも教えてくれている病気のようにも思える。

 

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素足

浮腫なき母の素足の小さきこと

 

母の足は夏でも冷たい。そして、いつもむくんでいる。心臓の機能が衰えてきているうえに、歩くこともなくなったから、血液の循環が悪いのだと思う。訪問リハビリや訪問看護の方がいつもマッサージしてくださるが、むくみのない日はほとんどなかった。

それがなぜか、昨年(令和5年)の5月ぐらいから急に足のむくみが消えた。生活の何かを変えたわけでもなく、なぜむくみがとれたのかは不明だ。取り組んできた減塩や、毎日するようになった足湯の効果だとしたら嬉しいが、徐々に減ったのではなく、急にむくみが消えて、それ以降はむくまなくなった。

こんな足だったのか。むくんだ足ばかり見てきたので、改めて母の足をみてそう思った。

 

 

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打水

打水をして往診の刻まだし

 

往診を待つ間というのはどこか落ち着かない。足を骨折して車椅子生活になってから、かかりつけ医が月一回往診してくださることになった。歩けなくなった母には申し訳ないが、これは正直かなり助かる。通院だと待ち時間と診察で3~4時間はみておかないといけない。往診だと通常は30分ほどで終わる。とは言え、お医者さんが家に来てくださるというのは、介護サービスの方々とは違った緊張感がある。訪問サービスは「訪問」が仕事だが、往診は特別なことをしてもらっているという感じがする。月一回というのが、さらに特別感を高める。

夏ならば、せめて打水でも……と庭に水を撒いて、今か今かと先生を待つことになる。

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胡瓜

臍曲げて厨に寝たるきうりかな

 

もちろん臍を曲げているのはきゅうりではない。だが、母の機嫌を損ねてしまい、食事の用意をしても「食べん!」と撥ねつけられてしまった時などは、思わずキッチンのきゅうりに「きゅうりよ、お前もか!」とでも言いたくなる。まったく……。ふて寝をしたいのはこっちだ。

もっとも介護生活の中で、こちらの経験値もあがってくるから、こういう場合の対応の仕方も引出しが増えてきた。少し間を置いて、何事もなかったかのように話しかける。母の好きな甘い物で釣る。母を放っておいて、さっさと自分だけ先に食べてしまう。

ちなみに裏庭の家庭菜園で作るきゅうりは養分が少ないと曲がりやすいように思う。

 

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汗かかぬ老いを介護の玉の汗

 

母はほとんど汗をかかなくなった。狭心症や不整脈といった心臓病を抱えているので、なるべく部屋の温度を一定に保っていることもあるが、やはり高齢になって体温調節ができていないのだと思われる。夏に冷房のないトイレに連れていっても、本人は涼しい顔をしている。だが、介助する姉や私はそのたび汗だくだ。

もっとも、喉の乾きも感じず自分では水分補給しようとしないので、汗をかかないといっても脱水症状や熱中症になる可能性はある。冷房の中にいるとはいえ、夏は注意が必要だし、秋や冬とて油断は出来ない。

室温22度を目安にしているわが家では、季節を問わず姉や私はときどき玉の汗を流す。

 

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明易

明易の母のお襁褓に夜の重み

 

二回分・四回分・六回分。何かの回数券ではない。紙おむつの種類である。二回分とは、約二回分の尿を吸収できるという意味で、吸水量の多いものの方が値段が高い。わが家の場合は尿パッドを併用して、パッドが尿を吸水しきれなかったときは紙おむつでカバーするという形にしている。これだとパッドの交換だけで済むことも多いから、紙おむつを履き替えるより手間が少ない。近頃は尿だけでなく、便が出ていること多くなった。不用意におむつを下げると、あちこちに便が付くことがあるので要注意だ。

相子智恵さんの句に「短日や襁褓に父の尿重く」(※)。手にずっしりと掛かる尿の重みは、時の重み、生の重みのようにも感じられる。

※『角川俳句手帖2022ー23 冬・新年』版より

 

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夕焼

夕焼けて母はわが家に迷子なり

 

夕暮症候群というらしい。認知症の人が、夕方になると不穏になったり、家に帰りたがったりする症状をさす用語だそうだ。私の母も一時期ほぼ毎日夕方になると、家に帰ると言って姉や私を困惑させた。いまは以前ほどではなくなったが、やはり一日の中で夕方が一番情緒不安定なことが多いように思う。

ところで、わが母に『認知症』や『夕暮症候群』といった病名を遣うことには、今でも少なからず抵抗がある。この病名でいいのかとも思うし、病名が一人ひとりの人格を一括りにしてしまっているようにも思える。

小山正見さんに「家に居て帰るてふ妻秋彼岸」(※)。母と二人の暮らしになって、今さらながら父の傷心と戸惑いが思われる。

 

※ 小山正見 句集『大花野』(翔出版)より

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炎昼

炎昼の床を濡らして母がゐた

 

なにが起きた? 廊下に立つ母の足元が濡れている。失禁したのかと思って、指につけて嗅いでみたが臭いはしない。では、この水は母が持ってきたものか? 母は何をしようしたのだろう? 呆然と立っている母の横に立って、私もしばらく呆然とした。

親の物忘れが増えてきて怪訝に思っても、歳も歳だから……などとそれをことさら深刻に考えたくない時がある。一方で、これはどう考えても認知症だと気づき、またそう悟らねばならない日が来る。ところが、その時には実はもうかなり進んでいる。もちろんそこからでも対応する術はさまざまあろうが、概して家族の認知症への対応は、後追いになることが多いのではなかろうか。

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