地震・津波の被害に遭われた方々、どうぞご無事で・・・。
投稿者: @haikaigo
明易
明易の母のお襁褓に夜の重み
二回分・四回分・六回分。何かの回数券ではない。紙おむつの種類である。二回分とは、約二回分の尿を吸収できるという意味で、吸水量の多いものの方が値段が高い。わが家の場合は尿パッドを併用して、パッドが尿を吸水しきれなかったときは紙おむつでカバーするという形にしている。これだとパッドの交換だけで済むことも多いから、紙おむつを履き替えるより手間が少ない。近頃は尿だけでなく、便が出ていること多くなった。不用意におむつを下げると、あちこちに便が付くことがあるので要注意だ。
相子智恵さんの句に「短日や襁褓に父の尿重く」(※)。手にずっしりと掛かる尿の重みは、時の重み、生の重みのようにも感じられる。
※『角川俳句手帖2022ー23 冬・新年』版より
一万回
一万回母を傷つけしその口で吐いてしまへり一万一回目のことば
本当は一万回どころではない。これまでどれだけ母を傷つけることばを吐いてきただろう。なかには暴言もある。誰かがそれを聞いて通報したら、私は虐待の罪に問われていたかも知れない。絶対にしないと誓って守ってこられたのは、母に手を上げないことだけだ。もう限界と思ったら、大声で泣くことにしている。泣くにせよ怒るにせよ、母に強く当たった後は、心にちくりと棘が刺さる。
それでも、すべての怒りを抑えたくはない。少なくとも「認知症だから仕方ない」という納得の仕方をしたくない。それは何か違う気がするのだ。母を一個の人間として見るなら怒るべきことをしたら怒りたい。たとえ母の心にも自分の心にも棘が刺さろうとも……。
石鹸玉
石鹸玉透けて記憶を病める母
『認知症』という病名に抵抗がある。では、どんな病名がよいか。一時期『記憶を病む』という表現を遣っていた。肺結核のことは、『胸を病む』と表現される。『心を病む』や『脳を病む』では他の精神疾患と紛らわしいので、『記憶を病む』ではどうかと思った。
しかし、最近はこれも違うなと思う。認知症が進んで表れる症状は、記憶力の低下にとどまらない。母には確かにさまざまな認知機能の低下が見られる。その意味では、『認知症』という病名は適切なのかも知れない。
それでも、やはり「母が認知症になった」という表現にはどこか違和感がある。侮蔑的と感じる人もいるかも知れないが、「母がボケた」というほうが、私にはしっくりする。
note「喜怒哀”楽”の俳介護+」では、短歌・詩・その他俳句を公開中
冬の雷
冬の雷母の陰より響くごと
はじめて老母の陰部を拭いた。私にとって、それは衝撃だった。その時の感覚は、母以外のそれを見た時とも、子どもの頃に風呂で母のそれを見た時とも違う。その瞬間は、自分の母親の陰部を見るという照れくささは消えて、何か厳かなものに対したような心境になった。そう感じたのは、ここから自分が生まれてきたからだろうか。あるいは私が男だからかも知れない。いずれにせよ私には、男根より女陰のほうがはるかに崇高なものに思われる。
もし人間の性器が楽器なら、男性器はチーンなどという安物のベルのような音しか出せそうにないが、女性器はどどどという和太鼓のような音を響かせられるような気がする。
※note「喜怒哀”楽”の俳介護+」では、短歌・詩・その他俳句を公開中
小鳥来る
パンを手に眠れる老母小鳥来る
一年の四分の三は母と家にいる。父が死んでから、常に母の傍にいられるのは私だけだ。だが、私にも仕事がある。とは言え、要介護5の母を一人には出来ないから、姉や介護サービスの方々に助けてもらいながら、仕事や買い物などに出かける。平日は15,6時間、日曜・祝日は24時間母と家にいるから、計算するとそのぐらいの割合になる。と言っても、家事と介護以外の大部分は、母の隣で眠る時間と母の傍にいるだけの時間だ。
母は朝食や昼食の最中眠ることがある。眠るといっても5分から10分程度眠っては目覚めて、また食べまた眠って、目覚めてまた食べをくり返す。そんな時はキッチンから見える裏庭を所在なく見つめていたりする。
夕焼
夕焼けて母はわが家に迷子なり
夕暮症候群というらしい。認知症の人が、夕方になると不穏になったり、家に帰りたがったりする症状をさす用語だそうだ。私の母も一時期ほぼ毎日夕方になると、家に帰ると言って姉や私を困惑させた。いまは以前ほどではなくなったが、やはり一日の中で夕方が一番情緒不安定なことが多いように思う。
ところで、わが母に『認知症』や『夕暮症候群』といった病名を遣うことには、今でも少なからず抵抗がある。この病名でいいのかとも思うし、病名が一人ひとりの人格を一括りにしてしまっているようにも思える。
小山正見さんに「家に居て帰るてふ妻秋彼岸」(※)。母と二人の暮らしになって、今さらながら父の傷心と戸惑いが思われる。
※ 小山正見 句集『大花野』(翔出版)より
note「喜怒哀”楽”の俳介護+」では、短歌・詩・その他俳句を公開中
春の蚊
手もことば伝へたれどもわれの手のことば足らずを春の蚊が刺す
介護は、手がいのちだと思う。介護の大半は手を使う行為だ。さらに言えば、介護は手で被介護者の身体に触れる行為である。身体を支える、おむつを替える、清拭をするといった行為は相手の身体に触れることなしには出来ない。だから、口で伝えることばに加えて、手で伝えることばがあると思う。いくらやさしいことばをかけられても、手にやさしさがなければ介護される人は安心して身を任せられまい。
私の母のように、言葉の理解が難しくなってくると、なおさら言葉だけでは気持ちが伝えられない。だから、「手のことば」が重要になってくるが、めったに人を刺すことのない早春の蚊がちくりと私の手を刺した。
草餅
草餅やいまは老母の頬を拭く
食べ物を口に運ぶ。当たり前だと思うこんなことが出来ない時がある。それがいまの母だ。食べ物を落とすことの多くなった母の手に半分に割った草餅を持たせる。母は餅がまだ手元にあるときから口を開ける。それから、ゆっくりと餅を口に運んでいく。しかし、餅は開いた口をそれて、頬にぶつかる。草餅のなかの餡が頬につく。頬に餡をつけた様子は、幼子のようだ。記憶にはないが幼い頃、私も母に頬を拭いてもらっていたことだろう。当たり前と思っていることも、実は学習と反復で身につけた「出来る」に違いない。
出来ないことが出来るようになり、老いてまた出来なくなる。だが、老いの出来ないはいのちを全うした証とも言えるのではないか。
水洟
吾の手で水洟拭ふ老母、こら!
鼻水が拭ければ何でもいい。母が自分の考えをことばに出来たら、そうとでも言っただろうか。母の不思議な言動は数々あるが、姉や私には分からないだけで、母には母の文脈があるはずだ。それが分かったらと思う反面、「知らぬが仏」ということもあるかも知れない、とも思う。あるいは鼻水が出た瞬間、握っていた私の手のことはわすれてしまって、自分の手を鼻に持っていったつもりだったのかも知れない。
ちなみにわが家のテディベアは、母に「かわいい。かわいい」と撫でられることもあれば、ぽいと投げられることも、ティッシュ代わりに鼻水を拭かれることも、挙げ句はパンのように囓られることもある。
※note「喜怒哀”楽”の俳介護+」では、短歌・詩・その他俳句を公開中