水打たむ母在らざらむ日のわれも
母が生きていたときにこの句を詠んだ。往診の医師を迎えるとき、母に癇癪を起こしてしまった自分の気持ちを鎮めるとき、私は庭に打水をした。
いつか母は死んでしまうだろうが、それでも夏になったら打水をしよう。母のことを思い出しながら・・・・・・。そんな気持ちでこの句を詠んだ。
しかし、母を亡くして迎えたはじめての夏、私は一度も打水をしなかった。正直、この句のことはわすれていた。もっとも仮に覚えていて打水をしたとしても、さみしさを募らすだけだっただろうから、わすれていたことは幸いかもしれない。
いつか母のことを思い出しながらも、おだやかな気持ちで打水のできる、そんな日がくることを願っている。
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