優しき人に

人生で何も成し遂げられぬともただただ優しき人になりたし

 

noteに掲載中の、母が認知症になってから死ぬまでを描いている小説は、介護の俳句や短歌を詠みはじめた頃まできた。母の死まであと3年である。

この短歌は、もっとも早い時期に詠んだもので、ほとんどが凡歌しかない私の短歌の典型的なものであろう。だが、小説にもこの歌を載せた。理由は、このブログは少なくとも自分の作品の秀作集ではなく、私の介護の軌跡と、それを通じて母の生きた軌跡を記すことを目的としたものだからである。

もっとも、7000余りの句と1500余りの歌を詠んでも未だに句や歌の良し悪しの分からぬ私には、秀作を集めたくても叶わぬことでもあるけれど・・・。

 

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春灯

春灯やこの椅子に母ここに父

 

父が亡くなって五年余り、母が亡くなって一年、いまだに二人の死を乗り越えたとは言い難い。

端的にいうと毎日が面白くない。たとえば仕事が早く終わった日、「さあ、これから帰って父と一杯やれる」というときの父がいない。たとえば日曜日、「今日は天気もよいし、父と母とどこかへ行こうか」などというときの父も母もいない。おいしいものを食べても一人、うつくしいものを見ても一人、日々の生活に“張り”がない。

そのうえ母が亡くなって、俳句がほとんど詠めなくなった。俳介護をはじめてからの四年間、巧拙は別としても7400句あまりを詠めたのに、亡くなってからの1年間、詠めたのは100句足らず、結局のところ私の俳句は文字通り「俳介護」だっということか。

 

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寒し

鍵開くる音響きけり寒き家

 

母が亡くなって一年余り。いまだに一人暮らしに慣れない。中学校入学と同時に下宿して親元を離れた私だが、四十歳の頃両親とまた同居することになって以来、家に帰ればいつも父と母がいたし、父が亡くなってからは、私が仕事から帰るまで姉かヘルパーさんが母の面倒をみてくれていたから、帰ってきて自分で家の鍵を開けるということもなければ、帰ってきて部屋を冷やしたり暖めたりすることもなかった。いつ帰っても、鍵は開いていて、夏は冷房、冬は暖房が入っていた。

母が死んで、姉もヘルパーさんも家には来なくなったから、当然ながら自分で鍵を閉めて家を出て、自分で鍵を開けて家に入る。鍵を開けるカチャリという音が響くと、「ああ、独りなんだなあ・・・」と実感する。

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もう良きかと尋ねて母は秋に逝く

 

2024年9月30日に母は旅立った。その二週間ほど前だったか、姉から「この間おかちゃんが急に『わたしやもう死んでもええか』って言うた」と聞かされた。この頃の母は姉のことは認識できなくなって、しばしば他所の人のように接することが多かったというが、このときは確かに姉だと認識して言ったようだ。

少し気にはなったが、まさか本当に逝くとは思わなかった。亡くなってみると、きっと母はもうとっくに限界を超えて生きてくれていたのだと思った。ただ、なぜ母がこの年に逝くことにしたのか、それが分からない。息子である私はもう自分がいなくても大丈夫だと思ったのか? それともまだまだ心配だが、これ以上はもう付き合いきれないと思ったのだろうか?

 

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打水

水打たむ母在らざらむ日のわれも

 

母が生きていたときにこの句を詠んだ。往診の医師を迎えるとき、母に癇癪を起こしてしまった自分の気持ちを鎮めるとき、私は庭に打水をした。

いつか母は死んでしまうだろうが、それでも夏になったら打水をしよう。母のことを思い出しながら・・・・・・。そんな気持ちでこの句を詠んだ。

しかし、母を亡くして迎えたはじめての夏、私は一度も打水をしなかった。正直、この句のことはわすれていた。もっとも仮に覚えていて打水をしたとしても、さみしさを募らすだけだっただろうから、わすれていたことは幸いかもしれない。

いつか母のことを思い出しながらも、おだやかな気持ちで打水のできる、そんな日がくることを願っている。

 

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