黒文字の花

黒文字の花幸せに単位なく

 

幸せとは、一つ二つと数えるものなのだろうか。それとも、一時間二時間とか一日二日とか数えるものなのだろうか。母を見送って哀しみにしずむ日々、しかし、いまこんなに哀しいということは、それだけ母と暮らした日々が幸せだったということだと気づいた。介護の日々がつらかったのなら、いまはむしろ解放感のほうが大きいはずだ。

そうすると、いまのこの哀しみもまた幸せの一部のような気がしてくる。喜びと悲しみ、幸せと不幸せは背中合わせもので、切り離すことが出来ないものなのかもしれない。

単位というものは連続するものを一定の基準で区切ることによって作られるものだが、人の気持ちは果たして区切れるのだろうか。

 

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冬すみれ

母逝きて年改まる冬すみれ 

 

 母が亡くなってから初めての新年を迎えた。父が亡くなって迎えた初めての新年には、まだ母が生きていて、父の生前と死後も生活に大きな変化はなかったけれど、母が亡くなると生活の一部を占めていた介護というものがすっぽりと抜け落ちて、生活が一変してしまった。そうかと言って、何かが変わったという新鮮な気持ちは持てなくて、「年改まる」の実感とは程遠いというのが正直なところだ。

ふと見ると、庭の花壇を囲う石の隙間に、冬すみれが咲いていた。この寒気の中に咲く可憐な花を、わたしはいつも母と重ねて見ていた。この冬咲いたすみれは、例年咲く淡い紫色ではなく、濃い紫色をしていて、こちらの色のほうがわたしの好みにあう。この冬すみれを見つけて、うれしくて哀しかった。

 

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わが家も減塩!

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朝顔

朝顔の萎める咲けるまた一日

 

母の介護がいつまで続くのか、明日にも終わるかもしれないと思うと切なかったし、あと10年続くかもしれないと思うと気が遠くなった。母との暮らしも、訪問入浴が来る前に母を起こして、お襁褓を替えて、着替えをして、食事をしてというときはとても慌ただしい一方で、昼食の途中で眠ってしまったときには時間を持て余してしょうがないというような、両極端な生活だった。

母の未来に待っているのは死だけで、なんの希望もなかったけれど、それでも今日もまた一日が無事に終わった。また今日一日が無事に終わってくれたらと願いながら生活する日々は、やはり幸せな日々であったと思う。

いま哀しいと思えるのが、なによりその証であろう。

 

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蛍火

蛍火や母も明滅するいのち

 

ちょっとしたことが命取りになる。とくに不調らしい不調がなくても、いのちが尽きてしまうかも知れない。そう覚悟はしていた。それでもいざ亡くなってみると、いのちとは何と儚いものなのだと思わずにはいられない。

4ヶ月近くブログを休んでいましたが、今日からまたブログを再開いたします。正直まだいろいろ思い出しながら書いていると哀しくなってきて、なかなか筆が進みません。しかし、まだ公開していない句も数十句以上あり、これをこのまま眠らせてしまったのでは、自分の「俳介護」の日々が完結しないような気もします。今までのように三日に一度の更新とはいきませんが、週に一度くらいときどきのぞいてくださるとうれしく思います。

 

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